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体験談のあらすじ
大学時代に咳が止まらず、息切れがして階段を一気に登ることができなくなったという金内大輔さん。悪性縦隔腫瘍(あくせいじゅうかくしゅよう)から、脳への転移。放射線治療で回復するも、治療の後遺症により辞職に追い込まれたり、思うように体が動かないといった悩みに直面した。そんな状況でも、続けた努力が報われた。
5yearsプロフィール: https://5years.org/users/profile/403
本編
咳から始まった異変
1992年、弘前大学の1年生だった北海道余市郡在住の金内大輔さん(取材時44歳、1992年当時19歳)が、咳を気にし始めたのは8月のことだった。
「夏風邪かな」と思ったが、9月になっても咳がおさまらない。
それだけなく、4階の教室まで階段を一気に登れたのが、途中で息が切れて一階ごとに休まなければ登れなくなっていた。
「単なる夏風邪じゃないな」そう感じたが、CT画像検査ができる病院は予約が一杯だったので、実家のある小樽の小樽掖済会病院へ行くことにした。
受診すると、即入院と言われた。
長期間入院しないといけないようだった。
この時、一番心配したのは大学のことだった。
浪人してようやく入れた大学を留年させられてはかなわない。
医師はそんな金内さんに、今のままでは命に関わると告げた。
寝耳に水だった。
「19歳の自分が病気で死ぬかもしれない? そんな話、信じられない……」
小樽掖済会病院での治療は難しいと言われ、札幌南一条病院に転院することになった。
小樽では治療できないほどの病気……。
何が起こっているのかもわからず、先の見えない不安に、金内さんは圧し潰されそうだった。
胸に刺された長い針が自分の身体の奥深くまで入り、今までとは違う世界にいるのだと実感する。
転院後、CT画像検査と胸の組織の生検を行った。
胸に水が2ℓも溜まっていた。
この水が咳の原因のひとつだという。
右の肺と左の肺の間にある縦隔に腫瘍(胚細胞腫)があり、どんどん大きくなっていると言われた。
病名は悪性縦隔腫瘍。https://www.ncc.go.jp/jp/rcc/about/germ_cell_tumor/index.html
金内さんには医学知識がなく「悪性腫瘍」の意味も知らないまま治療が始まった。
腫瘍が大きいため、薬で小さくしてから手術を行うという。
入院期間は半年になり、“留年確定”にうなだれたが、今は治療を終わらせることが一番大事なんだからと、言い聞かせた。
3週間を1クールとし、合計5クール行うBEP(ブレオマイシン、エトポシド、シスプラチン)療法が始まった。
この時は、これが「抗がん剤」の治療だとは知らなかった。
BEP治療中、テレビ番組の『がん戦争』で、「悪性腫瘍=がん」であることを知り、医師に言われた「命に関わる」の意味を知った。
脳の腫瘍と放射線
1993年1月。
自分ががんだと知った金内さんは辛い副作用に耐え、抗がん剤治療BEP療法をやり遂げた。
2月には、縦隔にある腫瘍を取り除く手術が行われた。
腫瘍は抗がん剤が効いたようでドロドロになっていたが、右肺にも転移していたため、急遽右肺を3分の1も切除する手術も行った。
しかし、それで終わりとはならなかった。
腫瘍マーカーAFPが上がったため、抗がん剤治療を再開することに。
退院できると信じていたのに、すべてひっくり返された。
しばらくすると、右半身がしびれ始めた。
「がんが脳に転移しているのかもしれない……」
金内さんは他のがん患者さんを見たり、本を通して、脳にがんが移転した際の症状を知っていた。
脳転移を確信した金内さんは怖くて涙が止まらない。
中村記念病院の脳外科でMRI検査を受けると、脳に直径1cmの腫瘍が見つかった。
ガンマナイフという放射線照射装置を使い、放射線治療を行う。https://ganjoho.jp/public/cancer/brain_adult/treatment.html
今では保険対象の治療だが、当時は保険の適用が効かず、1回に130万円近くかかる治療だ。
両親に迷惑をかけることが一番辛かったが、放射線治療が始まった。
CT画像検査装置のようなドーム状の中に頭を固定し、脳に向けて放射線を照射した。
これで治るのかと不安で一杯だったが、「今はやれることを1つ1つこなしていくしかない」そう言い聞かせた。
治療の効果はすぐに出た。
腫瘍マーカーAFPは正常値に戻り、脳の腫瘍の影も小さくなった。
術後の抗がん剤(BEP)療法を1クール受け、退院の目途がついた。
右半身の麻痺はない。
ただ、まだ髪の毛も生えていない自分が、元の生活に戻れるのか不安ではあった。
5月下旬、ついに退院。
9月から大学に戻れることになり、一年ぶりに下宿に戻った。
ところが、1996年3月に脳の腫瘍が見つかる。再発だった。
病気差別と放射線障害
8月、すでに大学4年生だった金内さんは、就職活動の真っ只中だった。
そんなある日、突然、右足に力が入らなくなり、つまづいた。
その瞬間、「放射線障害」の言葉が脳裏をよぎった。
しかし、自身に放射線障害であることを受け入れることができなかった。
気を紛らわせる意味もあって、就職活動を精力的に行い、内定を得た。
会社にがんのことを打ち明けるか悩んだが、不利になることが怖くていえなかった。
1997年3月。弘前大学を卒業し、実家近くの職場に就職した。
新社会人として働いたが、2か月後に右足の麻痺が悪化し、脳に腫れができて入院した。
恐れていたガンマナイフの後遺症だった。
2週間で退院し、職場に戻ろうとしたが、病気のことを知った会社から「無理(=復帰)しなくていい」といわれる。
事実上の解雇宣告だった。
必死に食い下がったが、会社に戻ることはできなかった。
ハローワークでも病のことを話すといい顔をされなかった。
その頃の金内さんは右半身の麻痺が進み、利き腕で箸を持つことや、字を書くこともできなくなっていた。
退職してからの生活は厳しく、再就職活動は上手くいかない。
右脚右腕の麻痺だけでなく、たびたび右腕が痙攣するのにも閉口した。
年末には脳の腫れにより頭痛が生じ、入院した。
坂を転げるように事態は悪化していく。
少しでも経済的に自立しようと、身体障害者の手続きをした。
抵抗がないわけではないが、自分の力で生きていくためには、障害を受け入れるほかなかった。
1999年1月。
脳浮腫が悪化し、開頭手術で頭に溜まった水や放射線壊死部の残存腫瘍の一部を除去する手術を受けた。
手術によって麻痺は大きく改善された金内さんは前向きになり、理学療法士になることを決意した。
今まで助けてもらった経験を活かして、誰かを助けたいと強く思ったからだった。
そのために短期大学の入学を目指したが、結果はすべて不合格。
現実は厳しく、翌年も同じ結果だった。
障害が進んでいるのか、単純な計算が解けず、小論文も書けなかった。
病気や障害のせいにはしたくないが、できない自分が惨めだった。
2002年。
理学療法士は身体的ハンディがある金内さんにとって酷な仕事になると感じ、進路希望を理学療法士から言語聴覚士に変更した。
しかし、それでも合格できない。
アルバイトをしながらの受験勉強は、ハンディキャップを持つ金内さんにとって酷だったが、仕事とキャリアをあきらめたくないと、必死に挑戦を繰り返した。
報われない努力はない
2004年11月、31歳になっていた金内さんは、北海道庁で障害者採用があることを父親から知らされた。
ただ、言語聴覚士を目指して2年も受験しているため、そう簡単に目標転換はしたくなかった。
しかも競争倍率は10倍以上だというのだ。
だが、父の親心を感じ、採用試験だけは受けてみることに。
筆記試験、小論文、面接試験があった。
面接試験では言語聴覚士の勉強についての質問が集中した。
いい加減な気持ちで採用試験を受けたと思われたかもしれない。
一方、言語聴覚士の受験は、私立の学校にだけ合格した。
うれしかったが、授業料が高く、入学は厳しい。
なぜこうも上手くいかないのかと頭を抱えていた時、北海道職員障害者採用の通知が届いた。
目の前がパーッと明るくなる。
やっと自分という人間が認められたように感じ、長く暗いトンネルを抜けたように思えた。
2005年4月、小学校の事務員として着任。
2006年には、頭の中の水分を貯めるリザーバーの設置手術を受けた。
金内さんにとって大きな転機となったのは、2010年の北海道寿都(すっつ)郡寿都町の小学校への転勤だった。
全校生徒が毎朝10分間走る体力プログラムがあり、金内さんも児童と一緒に走った。
手足の機能障害で走り方がぎこちなかったが、自分が走ることで子供たちに何か想いが伝わるかもしれない。
体の動きが悪く、時々はつまずいて転ぶこともあったが、毎朝欠かさず1周走った。
2014年。放射線療法により死んだがん組織を摘出するオペを受ける。頭につけられていたリザーバーも取り外された。すると右手・右腕の機能が徐々に改善し、わずかながら字も書けるようになった。
それから、毎週2~4日、スポーツクラブに通うようになった。
もっと身体を動かせるようになりたいと切実に思った。
この25年間、いろんな苦労を経験してきたが、報われない努力はないということを、金内さんは確信するようになっていた。
ハンディキャップがあっても、トレーニングを積めば学生時代のような記録だって出せるはずだ。
著作家ナポレオン・ヒルの有名な言葉、「思考は現実化する」を信じて、日々、過ごしている。
金内大輔さんの詳しい「がん闘病記」、及び「インタビュー記事」はウェブサイト『ミリオンズライフ』に掲載されています。ぜひ、読んでみてください。