子宮頸がん(ステージ2)シングルマザーのがん患者

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体験談のあらすじ

離婚してシングルマザーとして幼い一人娘を育てていこうと決意していた黒田奈美さん(取材時34歳、2014年当時30歳)。しかし、その矢先に母親の肺腺がんが見つかる。母の看病と子育てと仕事に必死な日々を送っていた黒田さんは、やがて自身も子宮頸がんであることが発覚。残酷な運命に翻弄された先に黒田さんはある希望をみいだす。

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本編

女性も手に職を

埼玉県所沢市在住の黒田奈美さん(取材時34歳、2014年当時30歳)は、三人兄弟の末っ子として生まれた。幼い頃から、母親から「手に職をつけなさい」と言われて育った黒田さん。高校三年生の時に、母親の希望で看護学校の入試を受けたが、不合格。
でも、本当は自分が就きたい仕事もわかっていなくて、なんとなく受験したので、さほどショックでもなかった。

ある時、母親が黒田さんに、エステの専門学校を提案した。黒田さんも美容には興味があったので、やってみることに。
学校に入学したら、皮膚科学、大脳生理学、生理解剖学、衛生管理学、フェイシャルマッサージの実技と勉強がとても楽しかった。結局、成績上位で卒業でき、そのまま学校にインストラクターとして就職した。このとき黒田さんは20歳だった。

その後、「現場での経験も積みたい」と、ブライダル会社のエステ部門に転職する。プライベートも順調で、交際中の男性と妊娠をきっかけに結婚し、2009年3月に娘を出産した。

ところが、子育てをめぐって夫婦の喧嘩が増えるようになった。
互いの子育てに対する考え方や、親の役割に対する考え方が違いすぎたのだ。
娘が1歳7ヶ月の時、黒田さんは離婚を決心する。
夫は養育費の支払いと、月に一度の娘との面会に同意した。

シングルマザーとなった黒田さんは、実家近くのアパートに引っ越した。
夕食は実家で食べるようにした。
この頃から、実家の母親の体調に異変が現れた。喘息のようにヒューヒューという息づかいをするようになったのだ。

2011年7月に、母親が西埼玉中央病院で詳しい検査を受けたところ、ステージ4の肺腺がんがわかった。
母親は抗がん剤治療を受けるも、副作用に苦しめられ、途中で治療を中止してしまった。
しかし、自宅にいる母親は元気そうに見えた。

自身を襲う不調

母親のことばかり心配していたが、いつしか、黒田さん自身も自分の体調に異変を感じ始めるようになっていた。2012年に入った頃から、不正出血とおりものが出るようになっていたのだ。
いつもとは違う感じがした。
一方、仕事は順調で、エステサロンではチーフになっていた。

気になるので、以前子宮頸がん検診を受けた、近所の婦人科クリニックAを訪れた。
しかし、医師は「女性ホルモンが多く出ているから健康の証!」といって診察は終わった。
不安な気持ちが解けなかった黒田さんは、6月に入りクリニックBに足を運んだ。子宮頸がんの検査をしたが、仕事が忙しく、なかなか結果を聞きに行けない。
そんなこんなで2013年も過ぎてしまった。

2014年1月、黒田さんは思い切って、新しいクリニックを訪れた。
超音波検査の後、女医からこう言われた。
「5センチ大の腫瘍があります。良性か悪性かはわかりませんが、一日も早く大きな病院で検査を受けてください」

黒田さんは後悔した。
この2年間、シングルマザーとして、仕事と子育てに忙しく、自分のことに目を向ける時間がなかった。
2年前の自分に言ってあげたい。「仕事を休んででも、病院に行くべきだったのよ」と。
4日後、黒田さんは紹介された西埼玉中央病院、産婦人科を訪れた。

検査結果は子宮頸がん、ステージ1B2期、腫瘍の大きさは4.8㎝だった。
子宮と卵巣を切除する「広汎子宮全摘手術+両側付属器摘出」をすすめられた。
https://ganjoho.jp/public/cancer/corpus_uteri/treatment.html
術前の化学療法もありそうだ。
「娘はまだ4歳なのに。がん治療中の母にどこまでお願いできるものか……」

実家に帰り、母親にがんのことを知らせた。
衝撃的な報せに母子二人で抱き合って泣いた。
娘には「ママはお腹が痛い病気なんだよ。しっかり治してくるから、おばあちゃんと一緒にいてね」と言った。
娘は泣きじゃくった。

手術と治療の始まり

がんの告知から1カ月後の3月、国立がんセンター中央病院で「広汎子宮全摘手術+両側付属器摘出+リンパ節生検」が行われた。手術は8時間にも及んだ。

10日後、母親が娘を連れて見舞いに来てくれた。約2週間ぶりに見る娘は、メソメソ泣いて黒田さんを困らせるようなことは一切なかった。
黒田さんは、もしかしたら、娘は我慢してつらい気持ちを抱え込んでいるのではないか、と心配した。
「一日も早く退院して元気にならないと」と感じた。

病理検査の結果、郭清したリンパ節22個のうち3つにがんが認められたと報告を受ける。これにより、今後、放射線治療が追加されることが決定した。

新年度になった2014年4月7日。
放射線治療のために再び入院し、IMRT(強度変調放射線治療)が始まった。
http://www.hosp.ncgm.go.jp/s036/040/index.html

IMRTは、放射線を照射する前段階が重要で大変だった。
まず、膀胱に尿をためなくてはならない。そして、毎日、大量の下剤をつかって大腸の中を空っぽにする。これだけでヘトヘトになるのに、その後、20分間ほど、放射線を患部に当てる。週に5日間を5週間、合計25回の照射が予定された。

最初の5日は疲れ果てて心身共に限界を感じ、金曜日から外泊許可をとり、2泊3日で自宅に帰った。だが、その帰り道も電車を使うので、何度も下車して休みながらだった。
サプライズにしようと、家族に内緒で実家のドアを元気にあけると、娘が大喜びで飛び出してきて号泣した。

短い実家生活はすぐに終わり、入院生活が戻ってきた。
患者の中でも若い黒田さんは「あなたは若いから大丈夫よ」と声をかけられたが、「がんに年齢なんか関係ないんじゃないの」と思って共感できなかった。
同年代の友達は病気の経験がなく、この辛い気持ちを分かち合える人が黒田さんにはいなかった。

試練の日々

5月のゴールデンウィークの頃、娘が急性胃腸炎を発症したことを知る。自分の治療も大変なのに娘にまで辛い思いをさせていると思うとたまらなくなり、治療を途中で打ち切って退院した。

「これからは、我慢ばかりの人生はやめよう。シングルマザーだから、生活がかかっている仕事だからと、アルバイトの子たちに気を使い、母に気を使い、お客さんに気を使い、我慢して休みもとれず、その結果、がんの発見が遅れてしまった。でも、遠慮と我慢だけの生活は絶対によくない」
黒田さんはそう決心した。

2015年1月、肺腺がんを患った母の様子がおかしい。
防衛医科大学校病院で胸部レントゲンをとると、白い影でいっぱいだった。
胸水が溜まっていて、骨にもがんが転移している可能性が高いという。

黒田さん自身も腫瘍マーカーの値が高く、腹水の穿刺細胞診を受けたところ、陽性反応がでてしまい、抗がん剤治療をすすめられた。
非情な試練の連続だった。

3月10日、抗がん剤治療のTC療法を通院で開始した。
https://www.ncc.go.jp/jp/ncch/division/pharmacy/pdf/TC.pdf
頭痛、吐き気などの副作用が出たものの、腫瘍マーカーは下がりだした。

その頃、母親のこれからについて、家族が一同に会した。
福岡に住む兄、横浜に住む姉もやってきて、母親の最期についての話し合いをしたのだ。
母親は家で最期を迎えたいという。父親はまだ会社員だったので、生活支援のためのさまざまな制度を利用して黒田さんがみることになった。
黒田さんはエステをしたり、スキンシップをして母親の痛みをやわらげていたが、いつまで続くのか先の見えない健康とお金の問題もあり、疲れ果てていた。

そんな中、母の容体をみるために、訪問看護師さんが時々訪ねて来てくれるようになった。
訪問看護師たちの姿に黒田さんは心を打たれていた。12年前、母親から看護婦の仕事をすすめられた時は反抗していた。
しかし、今はその見方が変わっている。

新しい道

黒田さんは、2016年4月から、週3日、看護助手として病院で働くことにした。
未経験でも構わないと言われたので、看護師の第一歩として挑戦することにしたのだ。

6月18日。母親が自宅で帰らぬ人となった。家族全員で見送った。

母親を失い、悲しみが癒えていない黒田さんに、さらなる試練が襲った。
PET-CT検査を受けたところ、骨盤腔右側のリンパ節にがん転移が認められたのだ。
「なぜ私にはこんなに次々と災難が降りかかるのだろうか……」
心が休まる日がない。

9月20日に抗がん剤治療(TC療法)を開始。
予定の6クールの2クールをやり終えた頃、腹痛が起こり、救急車で多摩北部医療センターに運ばれた。盲腸穿孔だった。
手術を受けるも、その後、仮性動脈瘤破裂による腹腔内出血でショック症状が起こり、再び手術。意識が薄れていく中で死を意識しながら思ったのは、ひとり娘のことだった。
「一日でも早くこの苦難を乗り越え、娘の元に戻りたい」
黒田さんは、涙ながらに神様にお願いしていた。

2017年になった。
病気ですっかりやせ細り、体重は35キロにまで落ちていたが、2月15日にようやく退院ができた。

自宅に戻った黒田さんは、身体を回復させるためにしっかり休んだ後、入院前に看護助手として働いていた病院に連絡した。
「是非戻っておいで」と温かい言葉をかけてもらった。

入院中、黒田さんは何度も看護師に助けてもらった。
これからは看護師を目指そうと決心していた。

夏から学習塾に通って、基礎の勉強を始めた。
そして12月。
所沢市医師会立所沢准看護学院の入試に合格した。
人生で初めて自分の意志で決めて努力して勝ち取った「合格」だった。
ここから道が開けていく感じがした。
「お母さん、ありがとう……」
空を見上げて、天国にいる母親に、そう声をかけた。

黒田奈美さんの詳しい「がん闘病記」、及び「インタビュー記事」はウェブサイト『ミリオンズライフ』に掲載されています。ぜひ、読んでみてください。

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大久保 淳一(取材・編集担当)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイトの編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト「5years.org」を運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。

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