乳がん(ステージ3)再び、歌のステージへ

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体験談のあらすじ

幼い頃から子役として芸能の仕事を楽しんでいた大月絢美さん。それは大好きな母との二人三脚での活動でもあった。大人になり、歌手の道を目指した時も、味方をしてくれた母の乳がんが発覚。自由診療を行うも、快方に向かうことなく悪化していった。そんな時、娘の絢美さんにも乳がんが発覚。結婚を控えた絢美さんにとって、苦しい選択肢もあった。しかし、母は回復することなく逝去。しかし、絢美さんは自分の使命を見つけ、しっかりと生きていくと決めた。

本編

子役~歌手 芸能の世界で活躍

5歳の時に劇団に入り、そこから子役として活躍していた東京都目黒区在住の大月絢美さん(取材当時35歳/2015年当時33歳)は、テレビドラマや映画に子役として出演するなど、母娘二人三脚で活動していた。
成長し、学業が忙しくなるとともに芸能生活から遠ざかるが、今度はバンド活動に目覚めるようになる。
そして、高校卒業後、ボイストレーニングを受けるアカデミーに入学し、プロ歌手への道を目指すことに。再び、母娘二人三脚の道が始まった。
4年間のアカデミー在学中、なかなかオーディションには合格しなかった。
しかし、もがきながらも自分のスタイルを模索し、2007年、絢美さん25歳の夏、歌手デビューへの道が開いた。

そして、2009年5月20日。ついに、歌手AyamiのシングルCD『愛はまぼろし/ひこうき雲』が発売された。

それからは、ライブハウスやさまざまなイベントに呼ばれるようになった。
とはいえ、ミュージシャンの世界も厳しく、デビューしても、自ら営業して各地を周り、Ayamiというアーティストを知ってもらって、チャンスをもらう。
食べていくのも一苦労で、ボイストレーナーやアルバイトもしていた。

2011年のある日、母親に乳がんが見つかった。
これまで、ずっと絢美さんを支えてくれていた、誰よりも大切な存在だった。
テレビドラマの子役時代、全国でロケを巡るときは必ず母が付き添ってくれた。
アカデミーでレッスンを受けている時も母が支えてくれた。
いつでも絢美さんの夢を応援し、その夢の実現のために向き合ってくれていた母だった。

大切な母親が乳がんに

乳房を切除したくないという母の希望により、自由診療に目が向いていた。
ラジオ波熱焼灼療法を受けたが、2年後、脇の下のリンパ節にがん転移が見つかり、一部切除を余儀なくされた。
絢美さんは、乳がんという病気と治療法について、十分な知識を持ち合わせていなかったことを悔やんだ。

30歳を目前に控えた頃、絢美さんは、これ以上、歌手活動だけをしているわけにはいかないと、派遣社員として会社で働くことを決めた。
担当したのは、主張旅費などの経費を精算するソフトウェアの営業職。
持ち前の明るいチャキチャキとした人柄から、人気の営業ウーマンになった。
会社の仕事以外にも、歌の先生、バイト、ライブ出演と予定が満載の、充実した日々だった。

この頃、絢美さんは真剣にお付き合いをする男性、圭介さんに出会う。
2人の交際は順調で、圭介さんの父の死をきっかけに、2人の結婚が決まった。

2015年7月、絢美さんは風呂上りにベッドで横になっていて、右胸の内側にコロっとした大豆粒くらいのしこりを見つける。
咄嗟に乳がんが頭に浮かび、母が通院したクリニックを訪れた。
エコー検査を受けたが、医師は「おそらく良性のしこりでしょう。急に大きくなったり、違和感があれば、また来てください」と画像診断だけで結論づけてしまった。

この年の秋、母は体調を崩し、寝込むことが増えていた。

11月、絢美さんは、しこりが急に大きくなり始めていることに気づき、12月2日、昭和大学病院・乳腺外科を訪れた。
血液検査、マンモグラフィ、超音波(エコー)検査、生検が行われた。
結果は2週間後に出る。

12月6日、母の主治医から母親の症状について話しを受ける。
進行したステージ4の乳がんで、肝臓、腎臓、骨にも転移があるという。
そのことを母に伝えると、母は静かに「そっか、わかった」とだけ言った。

父や祖父母にどう伝えたらいいのだろう……。
抱えきれない思いを誰かにわかってもらいたくて、圭介さんに連絡した。
数カ月前に自分の父親を看取ったばかりの圭介さんは、「僕がそばにいるから、辛い現実にも覚悟していこう」と言ってくれた。
絢美さんは、自分の治療と母の世話を両立させるために、母を昭和大学病院に転院させることにした。

自分にも乳がんが

12月15日、絢美さんは自身の検査結果を聞きにいった。
告げられたのは、「乳がん、トリプルネガティブ
転移がなければ、半年ほどの抗がん剤治療を行い、その後手術。転移があれば、長期間の抗がん剤治療になると説明を受けた。
正直生きた心地がしなかった。
母を見てきただけに、ついつい悪い方へと考えてしまう。

1週間後にPET-CT検査を受け、クリスマスの日に「多臓器への転移はなし(ステージ3C)」と告げられた。
しかし、転移はないものの、がんが胸骨の裏にもあるので、手術の後、放射線治療が必要になると言われた。

母と同じ乳がんになり、どうしていいのかわからなくなった絢美さんは、圭介さんに結婚に踏み切っていいものか悩みを打ち明ける。
圭介さんは、「君は生きるんだから、そういう心配はしなくていいんだよ」と言ってくれた。
不安と孤独で押しつぶされそうになっていた絢美さんを励ましてくれる言葉だった。

治療は翌月(2016年の)1月26日から開始された。
抗がん剤(ドセタキセル)を3週間入れて1クールとするもので、合計4クールの予定。
https://ganjoho.jp/public/dia_tre/treatment/drug_therapy/anticancer_agents/data/docetaxel01.html

むくみ、味覚障害、手足のこわばり、脱毛といった副作用が現れた。
治療中にもライブステージの予定は入っていたので、ウィッグをつけることに。
「病人っぽいのは嫌。ライブという私の居場所で自分のステージをやり遂げたい」
そう思っていた。

4月12日、圭介さんの母、啓介さん、絢美さん母娘の4人で食事をした。まもなく結婚する2人の門出を祝う昼食会だった。
しかし、その夜、絢美さんの母は再び具合が悪くなり、3日後に入院となった。

絢美さんのほうは、4月18日、ドセタキセル治療の全4クールが終了した。しかし、治療効果はそれほど現れず、胸のしこりの大きさは変わっていなかった。

翌日から、次の抗がん剤(FEC)治療が始まった。
(https://www.jfcr.or.jp/hospital/cancer/treatment/medication/disease.html )
投与した直後から強い吐き気に襲われ、その吐き気は1週間続いた。

母からのメッセージ

4月26日、母の意識が戻らなくなる。

4月27日、絢美さんと圭介さん、区役所に婚姻届を提出し、入籍。

5月8日、病院から母の状態が山場かもしれないと連絡があり、家族が病院に集まる。
絢美さんも駆けつけるが、途中、これから抗がん剤治療を控えているという若い女の子から「どうしてそんなに元気なの?」と声をかけられる。
顔色の悪い彼女に、これから必要なことを答えていたとき、ハッとした。
「私は自分が元気でいることで、誰かの役に立つことができる……」
それは、他界する母親からの「絢美にはまだやることがあるのよ」というメッセージのように思えた。
翌朝、母は帰らぬ人となった。

4月から始まったFEC治療は、6月28日に第4クールの最後の投与が行われ、終了。
それでも右胸の腫瘍は小さくならなかった。
ただ、大きくもならないし、転移も認められない。
主治医は外科手術に踏み切ることを決め、オペは8月12日に予定された。

手術までの間に、絢美さんと圭介さんはアメリカとカナダに新婚旅行に出かけた。目の前に広がる雄大なグランドキャニオンを見ていたら、自分の悩みがちっぽけに思えた。

8月12日、「右乳房切除+センチネルリンパ節生検」が行われた。
手術は無事に終わった。
乳房の切除とともに、それまであった胸の痛みが消えた。

新しい自分

なくなった自分の右胸を見たとき「新生Ayamiの誕生なんだ」と思った。
夫も「胸があってもなくても、キミには変わりない。キミには良い所がいっぱいあるじゃないか」と言ってくれた。

10月に入り、計33回の放射線治療に入った。
11月には終わり、12月から、経口の抗がん剤(ゼローダ)を半年間服用することに。
手足のひび割れに悩まされたが、すべての乳がん治療をやり遂げた。

新しい自分

2017年に入り、絢美さんはBEC(Brest Cancer Experienced Coordinator)の資格を取得し、仲間たちと「Smash-BEC」という活動を始めた。
乳がん患者向けにボイストレーニングをしたり、コーラスなど、2時間、好きな歌を歌う会だ。
がんを発病してから休止していたブログも闘病日記として再開した。

そして、ライブ活動を復活させた。
母を失ってからは歌えなかったが、ようやく歌を歌おうという気持ちになれた。

がんを経験し、母を失った今、誰に何を歌で伝えたいかが、絢美さんにはわかってきた。
母からのメッセージ、母との約束。
「私だからできることがあるはず」
自分が元気でいることで、歌という手段があることで、誰かを元気にできる気がしている。

大月絢美さんの詳しい「がん闘病記」、及び「インタビュー記事」はウェブサイト『ミリオンズライフ』に掲載されています。ぜひ、読んでみてください。

plus
大久保 淳一(取材・編集担当)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイトの編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト「5years.org」を運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。

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