慢性骨髄性白血病の事実を明かし、積極的に生きる

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体験談のあらすじ

自分に出来る社会貢献をしたいと定期的に献血をしていた藤田誠二さんは、献血から慢性骨髄性白血病が見つかる。38歳の時だった。治療は順調だったが、白血病の事実を周囲に伏せて苦しんでいた。それが旧友と会った日から変わる。長期治療が必要な患者たちを勇気づける闘病・社会復帰紀。

本編

「俺、実は…がんなんだ…」

北九州市八幡東区にある河内貯水池で15年ぶりに再会した幼なじみに打ち明けた。

もうこれ以上がんを隠したくない、そんな思いで明かした事実。

肩の荷が下りていく感じだった。

献血ルーム

2014年9月、北九州市小倉北区にある献血ルームで予備問診を受けていた福岡県直方市在住の藤田誠二さん(42歳、2014年当時38歳)は、医師から不思議なことを言われる。

「白血球の数が11.0(x10*3/μL)と少し高めですね(正常値:3.5~9.5(x10*3/μL))」

白血球の値が高い…。

このとき大昔の記憶がよみがえった。

「たしか、女優の夏目雅子さんが白血病で他界したはずだ」

藤田さんは巨大な製造装置であるプラント関係の会社に勤務していて、そこで工事責任者の仕事をしていた。終末もないほど忙しくつねに現場をまわっている。

2014年11月、この日も工事現場を回っていたが午前の休憩時間がやって来たので休憩室に入った。そして、その時、

“ズキン”

腰に痛みが走る。

「なんだろ…。これは筋肉性の痛みじゃない…」

嫌な予感がした。

不安に思った藤田さんはインターネットで情報検索を始める。

9月の献血で白血球の数、今月の腰の痛み、何だろう…。

可能性のある病気をリストアップしていくと「白血病」という病名がちらついた。

数値に異常

12月のある日、妻の淑美さんが「12月だから(=前回献血してから3ヵ月以上空いているから)献血できるんじゃないの?」そう言った。

社会貢献が楽しみの一つである藤田さんは、淑美さんと一緒に北九州市八幡西区黒崎にある献血ルームを訪れた。

12月23日。

いつも通り事前に採血して予備問診を受け、待合室で待っていると医師から呼び戻された。

「血液の数値に異常がみられるから出来る限り早く病院へ行って検査を受けてください」

インターネットサイトや医学書を読んでこれまで起こったことを確認し調べるのだが、調べれば調べるほど不安が大きくなっていく。

相変わらず腰の骨は痛い。

やがて胃が痛くなり近所のかかりつけ病院へ行った。

かかりつけ医に胃が痛いと伝え血液検査もしてほしいとお願いした。

そうしたら翌朝、病院から電話が入り「今すぐ来てほしい」と言われる。

急いで病院に行き診察室に入ると硬い表情をした先生がいた。

血液検査結果報告書をみせて「白血球の数が、18.0(x10*3/μL)と高い」という。

それよりも何より「ブラスト(芽球)値が7という高い値を示している」と説明された。

そして最後にこう言われた。

「恐らくですが…、慢性骨髄性白血病の疑いがあります」

心が浮かない年末年始

紹介された九州病院に行くと、さっそく血液検査と点滴が行われた。

やがて医師がやって来て、かかりつけ医と同じことを言う。

“慢性骨髄性白血病の疑い”

更に詳しい検査を受けることになった。

2015年1月5日

九州病院・血液内科で、骨髄穿刺(こつずいせんし)を受けた。

注射針を背骨に刺して骨髄を抜き取る注射で、失神するかと思うほど気持ちの悪いものだった。

2週間後に検査結果が出て、担当医から「慢性骨髄性白血病の慢性期(C.P)でまちがいないです」そう伝えられた。

がんの“疑い”が“がん確定”になった瞬間。

ただ直ぐに悪くなるものではないので入院するタイミングは藤田さんが決めていいという。

さらに「スプリセル(分子標的薬)」は点滴で身体に入れる抗がん剤ではなく、口から飲み込む錠剤の薬と説明された。

いろんなことが藤田さんの持つがん治療のイメージと違っていた。

治療方針が決まったので会社の上司に報告。

それからは仕事の引継ぎの段取りがなされ、入院はかなり先の3月3日と決定。

これまで病気のことを母親には伏せていたが、ここで思い切って明かした。

すると「こんな身体に産んでごめんね」と藤田さんのがんの責任は自分にあるかのように母親からは言われる。

自分以上に悲しそうで、母親が不憫(ふびん)で仕方がなくなった。

治療開始

2015年3月3日、入院の日。

分子標的薬「スプリセル」を投与して効果と副作用を診るために行われた入院。

「スプリセル」を服用した初日「ああ自分は本当にがん患者になったんだな」と改めて感じた。

治療の結果、“効果があり、副作用が少ない”

素晴らしい結果から予定を早めて2週間で退院。

分子標的薬はよく効いた。

白血球の数値は正常に戻り、治療開始以降みてきた指標も順調に下がる。

藤田さんがイメージしていたがん患者の闘病とは異なり、手術をしない、抗がん剤で髪の毛は抜けない、そんな自分の治療を不思議に思った。

また「白血病」という“血液がん”なのに普通の生活を送れることに表現のしようのない有難さを感じた。

4月から復職し、普通に会社に行き仕事をする生活を取り戻したが、周囲には自分が慢性骨髄性白血病の患者であることを伏せておいた。

他人に同情されたり、哀れみの目で見られるのが嫌だったからだ。

薬のおかげでがんの進行が抑えられ、結果的に毎日会社で仕事ができる自分だが、がん患者には変わりない。

いつか“がん”が薬に耐性を持ち、効かなくなる日が来るかもしれない。

だからいつまで経っても不安はぬぐえない。

いろんな気持ちがごっちゃ混ぜになり、心が整理できないから、自らの病気を周囲に明かすなんてできなかった。

一方で、がんの事実を隠しているからつらく感じる。

そんな毎日が1年も続いた。

幼なじみとの再会

2016年3月。

がん治療を始めて1年が経ったころ、愛車のオートバイに乗って、八幡東区にある河内貯水池に行った。  

気分転換をしたかったのだ。

そこで偶然幼なじみの河口純一君と15年ぶりに再会する。

そして河口君から中学卒業以来集まっていない同窓会の幹事を一緒にやってほしいと頼まれる。

治療中で気が進まないから断るのだが、余りに熱心に誘われるので、つい勢いで言ってしまった。

「俺、実は“がん”なんだ…」

一瞬の静寂(せいじゃく)のあと、いろいろ質問されるので詳しく説明した。

「あーあ、ついに言ってしまった」

隠し続けてきた“がん”を明かしたことで「しまった」という気持ちが半分、「ほっとした」気持ちが半分、何とも言えない不思議な感じだった。

結局、同窓会の役員をすることになり、Facebook非公開グループの中で「自分ががんを患っている」事実を明かす。

多くの仲間たちからコメントを返され、想像していたような腫れ物に触るような扱いはなく昔と変わらずに接してくれた。

それが嬉しくて藤田さんの気持ちはますます軽くなる。

全力で生きるモチベーション

2016年4月。

上司から呼ばれ会議室に行くと、プラントを新規建設する部門の仕事を任せたいと言われた。

がん患者であるにもかかわらず「病人」とか「制約のある人」といった見方ではなく、自分の仕事ぶりと仕事に対する姿勢を評価してくれた。

それが嬉しくてたまらなかった。

また9月に入ると自分で着てみたいと思うワイシャツをデザインし、材料を調達し縫製して仕立てみた。

温めていた「いつか、やりたいことの一つ」自前のYシャツ作りを始めた。

がんを「言い訳にしてやらない」ではなく、「後悔したくないからやる」人になっている。

なにごとにも積極的なのだ。

がんは自分に人生を全力で生きるモチベーションと「人に感謝する気持ち」を教えてくれた。

薬の副作用はつらいけど、こんな病気、自分の大切な人ではなく僕でよかったと思っている。

前向きにとらえ積極的に生きている藤田さんだ。


藤田誠二さんの詳しい「がん闘病記」、及び「インタビュー記事」はウェブサイト『ミリオンズライフ』に掲載されています。ぜひ、読んでみてください。

plus
大久保 淳一(取材・編集担当)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイトの編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト「5years.org」を運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。

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