精巣腫瘍(睾丸がん)職場復帰し、国家試験も合格

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体験談のあらすじ

精巣腫瘍(睾丸がん)が見つかった原健悟さん。すぐに入院して手術と抗がん剤の治療を受けた。副作用はきつかったが、家族の支えもあって乗り切ることができた。職場にも復帰した。しかし、体力の低下は予想以上で思ったように動けない。イライラも募る。そんなときに社会福祉士の国家試験合格の知らせが届いた。治療をがんばったおかげで、また一歩成長できたと感じた。

本編

お風呂で右の睾丸が大きいことに気づいた

2016年1月の中旬。関西在住の原健悟さん(取材時49歳/2016年当時46歳)は、お風呂に入っているときに、右の睾丸が左の1.5倍くらい大きいことに気づいた。
陰嚢水腫(いんのうすいしゅ)かな」と思った。
原さんは障がい者の施設で働いていて、自分と同じような症状だった利用者に付き添って病院へ行ったことがある。
そのときの病名が陰嚢水腫だった。

このころ、原さんは社会福祉士の国家試験を一週間後に控えていた。
今回で4年連続の受験だった。
過去3回の悔しさをすべてぶつけるつもりで受験勉強をしてきた。体調のことで集中力を切らせたくなかった。まずは試験を優先、それから病院。
そう決めた。
変に心配されると嫌なので、妻にも黙っていた。

2016年1月24日、試験が終わり、妻に睾丸の腫れのことを話した。
「明日、病院へ行ってくるよ」
そう伝えると、妻はちょっと驚いた顔をしていた。

インターネットで探した市内の泌尿器科クリニックを訪ねた。
触診と視診をした医師は、「紹介状を書くので、今日中に市立病院の泌尿器科へ行ってください」と言う。
「やっかいな病気なのかな」
不安が膨らんだ。

3日後に入院、4日後の手術という慌ただしさ

市立病院へ行くと、すぐにCT検査が行われた。初めての検査だ。しばらくして検査結果が伝えられた。
精巣腫瘍です。後腹膜のリンパ節に転移している可能性があります。今後は高位精巣摘出術
を行います。最終的な治療法として抗がん剤を用いたBEP療法を行います」
専門的な言葉が並ぶ説明だったので、原さんには十分に理解できなかった。
どうもがんらしい。
手術や抗がん剤での治療を行うのだろう。
それくらいしかわからず、質問も出てこない。

ただ、主治医が最後に言った言葉は強く胸に刺さった。
「根治を目指しましょう」
根治の可能性があるんだ。決して絶望的な状態ではない。
それならがんばってみよう。
希望がわいてきた。

ただ精巣腫瘍は進行スピードが速いがんのため、3日後には入院し、4日後に手術をするという慌ただしさだった。
帰宅後、すぐに妻に知らせ、翌日には職場にも伝えた。
妻も上司も同僚も、思いがけない展開に言葉を失った。
母親には伏せることにした。と言うのも、父が1年前にすい臓がんと診断され、余命まで宣告されている。
精神的にかなり参っているので言わない方がいいと判断したのだ。
父にはどうしようか、さんざん迷ったが、気持ちの強い父なら大丈夫だろうと伝えることにした。

家族とアイスホッケーが大きな支えに

1月29日に高位精巣摘出術を受けた。
1時間ほどで無事に終了。2日後には退院することができた。

しかしそれで終わりではない。引き続き、抗がん剤治療を受けることになった。BEP療法と言って、ブレオマイシン(B)エトポシド(E) シスプラチン(P)の3種類の抗がん剤を21日間かけて体内に入れるのだ。これを3クール行う。

がんと診断されてから、父親とは毎週のように電話で話をした。
今までにはないことだった。
「お前の病気なんか、俺に言わせれば盲腸みたいなもんや」
息子を元気づけようとしてくれているのだろう。
すい臓がんで余命まで宣告されている父親が発するひと言ひと言が胸に沁みた。

抗がん剤治療の副作用は6日目から出始めた。
強い吐き気と食欲不振。
髪の毛も抜け始めた。抜けてもまた生えてくるからと思っていたが、実際にバサッと髪の毛が抜けると何ともみじめな気持ちになった。

毎週末には外出許可をもらって自宅に帰った。妻も中1と小4の子どもたちも温かく迎えてくれた。家に帰ると生き返ったような気分になった。

入院以来、妻は毎日のようにお見舞いに来てくれた。洗濯した着替えを届けてくれて、しばらく話をしてから帰っていく。変に同情をせずに普段通りに接してくれるのがとてもうれしかった。

子どもたちも原さんのがんのことは知っていた。
しかし、会うたびに髪の毛が少なくなっているのを見ると複雑な心境になるようだった。自宅へ戻ったとき、無性にハンバーグが食べたくなり、妻にリクエストしたことがある。さて食べようと思ったとき、においが刺激になって吐き気をもよおしてしまった。
子どもたちは驚いていた。自分たちが考えているより深刻な状態なのだと心配になったかもしれない。
子どもに心配をかけることが、父親としてとても情けなかった。

3月24日、抗がん剤の第3クールが始まった。このころになると、病棟を散歩したり、階段の上り下りをする余裕が出てきた。
もともと体を動かすのは好きだった。
大学時代はアイスホッケー部に所属し、卒業してからもクラブチームでプレーをしてきた。アイスホッケーは最高の楽しみだった。
早くアイスホッケーをやりたい。
それが治療に積極的に取り組むモチベーションとなった。
検査で確実に腫瘍が縮小しているのがわかったことも厳しい治療をやり遂げる励みとなった。

4月14日、全3クールのBEP療法をやり遂げて退院した。ほっとした。
ちょうどこの日、熊本地震が起こった。震度7が二度も。
自分は助かったが、地震でたくさん亡くなった。治療が終わったことを素直に喜んでいいのだろうか。この日のことは生涯、忘れることがないだろう。

職場にも復帰でき、国家試験も合格

退院から5日後にPET-CT検査をした。
「もう大丈夫です。これ以上の治療の必要はありません」と主治医も太鼓判を押してくれた。
うれしかった。
医師と看護師に「おめでとう」と祝福され、付き添ってくれた妻は涙をにじませていた。

すぐに父に報告をした。父は「良かったなあ」とうれしそうだった。
余命半年と言われてから1年が経過している。
父が元気なうちにいい報告ができて良かった。心からそう思った。

ゴールデンウイークが終わってから職場に顔を出した。がんが消えたこと、復職することを伝えると、仲間は拍手で祝福してくれた。

翌週から仕事を始めた。復帰できたのはうれしかったが、3ヶ月半も休んでいたので、仕事の感覚が鈍っている。
体が気持ちについていかず、もどかしくてたまらない。
リーダー的な立場を期待されていたので、早く以前のようにバリバリ働けるようになりたいと焦りが募った。

精神的に余裕をなくしているとトラブルも起こってしまう。
何気なく発したひと言で利用者との関係が悪化したこともあった。
まわりのスタッフに迷惑をかけている。
悩んだり落ち込んだりした時期だった。

苦しみから救ってくれたのはアイスホッケーだった。
練習が楽しくてたまらなかった。
このためにきついがん治療を乗り越えたんだと喜びがあふれてくる。エネルギーが体の底から湧き上がってきた。

同時に、社会福祉士の試験の準備も始めた。
病院へ行く前に受けた試験も不合格だった。
5回目の挑戦。合格したいのは山々だったが、こうして試験の準備ができるだけでも幸せだった。
がんを乗り越えた実感があった。

2017年1月29日に試験があった。
しっかりと勉強をしたつもりだったが、手ごたえはない。たぶん不合格だろう。でも、来年があるさ。
自分を慰めた。

3月17日。妻から職場に電話があった。
社会福祉センターから封筒が届いているとのことだった。
過去4回、不合格だったときははがき一枚だった。ひょっとしたら……。
期待が膨らんだ。
帰宅後、恐る恐る封筒を開封した。
合格! 
妻と手を取り合って喜んだ。

がんになってつらい思いもしたけれども、がんばって治療を乗り越えたことで、また成長することができた。
この体験を生かして少しでも人の役に立てる人生を歩みたいと、毎日を大切に生きている。

原健悟さんの詳しい「がん闘病記」、及び「インタビュー記事」はウェブサイト『ミリオンズライフ』に掲載されています。ぜひ、読んでみてください。

plus
大久保 淳一(取材・編集担当)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイトの編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト「5years.org」を運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。

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