大腸がん(S状結腸がん、ステージ4)からの職場復帰

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体験談のあらすじ

外資系銀行で秘書としてキャリアを積んでいた中川美和さんが体調に異変を感じたのは48歳の時。大腸がんがわかり、そこから転移も経験し、4回に及ぶ手術と長期の抗がん剤治療を経験した。幾度も突き落とされるような経験をしながら、がんを乗り越えた中川さんの闘病記録を紹介する。

本編

突然のがん告知

東京都目黒区に住む中川美和さん(仮名・取材当時57歳、2007年当時48歳)は、2007年8月、自分の体に異変を感じた。特に理由もないのに、毎日とても疲れる。
外資系銀行の在日代表者の秘書として多忙を極めていた。不規則な生活は気になっていたが、毎年行う健康診断では異常はなかったので、心配はしていなかった。

だが、この疲れ方はちょっと嫌な感じがする疲れ方だ。
そう思い、消火器専門のクリニックで大腸内視鏡検査を受診することに。

モニターに映し出された自分の大腸の中の画像に衝撃を受けた。
「きれいなピンク色じゃなくて汚い。しかも、ぐちゃぐちゃに腫れている」
医療の素人である自分にも、何か“大変なこと”が起きていることがわかった。

一連の検査が終わり、40代前半の若い医師は中川さんの顔を見て、こういった。
「これは大腸がんです。手術してとりましょう。ここでは無理なので、手術できる病院を紹介します。どこがいいですか?」

頭が真っ白になった。何かの病気だろうとは思っていたが、まさかがんだとは思いもしなかった。これまで、毎年の健診で問題はなかったのだから。

母の友達の息子さんが大学病院の消化器外科医だと言っていたのを思い出し、紹介状を書いてもらった。
「何か質問はありますか?」
医師から質問されたが、何も浮かばなかった。何を言えばいいのかもわからなかった。
放心状態で病院を出た後の足取りは自分でもよく覚えていない。

母と二人暮らしの中川さんが一番気になったのは、母親のことだった。76歳で病弱の母親に、自分の病気のことで苦労をかけることは申し訳なかったし心配だった。
「もし、自分が母よりも先に死んでしまうようなことになれば、母は一人きりになってしまう。一体どうすればいいのだろう」

人に頼る決心

考え抜いた中川さんは、自分の入院中の身の回りの世話を友人に頼むことにした。
友人達はサポートを約束してくれた。本当に有難かった。

手術は検査から約3週間後の9月20日に決まり、会社には大腸がんであることを告げた。
上司のフランス人は、「自分の好きなように治療し、その結果を教えてほしい。会社のことは大丈夫だから、何よりも治療を優先してほしい」といってくれた。これには心底ホッとした。
手術をすれば、また元気になる…。そう信じて手術にのぞんだ。

手術日。全身麻酔を受け、腹腔鏡でS字結腸を外科的に切除する手術を受けた。
ところが、5日後、お腹に表現のしようがない激痛が走り、「寒い」「暑い」が交互に自分の身体で起こり始めたのだ。ただごとではない…、そう中川さんは感じた。

腹膜炎が起こっていることがわかり、緊急の開腹手術を受けた。
この時、中川さんの横腹には人工肛門が取り付けられた。ショックだった。
一度は退院するも、再びお腹が痛み出し再入院。
それからは絶食と絶飲、CT検査、MRI検査、PET検査など、あらゆることが行われ、医師から告げられたのは、「肝臓への転移の可能性」だった。

転移の告知

転移の告知は、最初のがん告知とは比べ物にならないくらい辛かった。
手術でがんを切除すれば大丈夫だと思っていたのに、どんどん状況が悪くなっていく。
しかも、肝臓の手術をする前の3カ月間は抗がん剤治療を行うという。
「自分はこれからどうなってしまうのか…」
考えるのも恐ろしかった。

医師から抗がん剤の種類を自分で選ぶように促された。
「髪の毛は抜けるが手足にしびれの出ない薬」か、「髪の毛は抜けないがしびれの出る薬」か。
そんなこと、自分に判断できるわけがない。
友人と母親に相談して、前者にすることに。「髪の毛はまた生えてくるけれども、しびれは一生後遺症として残る可能性がある」という理由からだった。

抗がん剤治療は、3種類の薬を使うFOLFIRI
に決まった。CVポートを胸の皮下に埋め込み、自分で抗がん剤を注入する方法もすすめられたが、そんなこと怖くてできないから、通院して抗がん剤治療を受けることにした。

「なぜ、私がこんな目にあわなくちゃならないのだろう…」
先の見えない生活になり、不安と恐れが広がっていく。
がんで他界した祖父や伯母の顔が浮かんだ。
「私も入退院を繰り返しながら死んでしまうのではないか」
ふと、そんな思いもよぎった。

最初の告知から7カ月後の2008年3月31日、肝臓に転移したがんの手術を行った。
手術は無事に終わり、順調に回復していった。
嬉しいことに、この手術で人工肛門がとれた。

二度目の転移と患者会への参加

しかし、さらなる試練が訪れる。
退院後1カ月もしないうちに2度目の肝臓転移が見つかり、4度目の手術をすることになった。
「いつまでこんなことが続くの…?」
もう、何もかもどうでもよくなり始めた時、叔母から患者会に行くことを勧められた。

都内にある患者会に行ってみると、同世代のがん患者を含め、先輩患者たちが大勢いた。
「ここにいる人たちは、私と同じつらさを経験している。何も言わなくても私のつらさを理解してくれる」
そんな安心感から気持ちが安定していった。
いろんな人達が書いた「がん闘病記」も読んだ。中には自分にとってバイブルと思える本もあった。
それからは、暴飲暴食だった自分の食生活を改め、食事内容にも気をつけるようになった。心の状態も安定し、良いサイクルに入っていくのを感じ取れた。

精神的余裕ができると、少しずつ働くことや、職場のことに思いを馳せるようになってきた。
「以前は会社や仕事に文句ばかり言っていたけれど、もうそんなことは言わない。毎日通勤できる元の生活に戻りたい」という意欲が出てきた。
だから、治療を続けながらでも会社に行くようになった。幸せを感じた。

2009年9月、3回目の抗がん剤治療(5FU+レボホリナート)を終えた。

翌月からは「UFT UZEL」の服薬治療が始まった。

治療は2012年2月まで続いたが、そこでひと段落を迎えた。
最初にがんが告知されたのが2007年9月だったので、実に4年半の歳月が経っていた。

がんになって気づいたこと

2014年には、胸に埋め込まれたCVポートも取り外された。何かあったらすぐに治療薬を入れられるようにと設けられていたものだったが、それももう必要がないという判断がされたのだ。
待ちに待ったこの日。晴れ晴れとした嬉しい気持ちだった。
ここまで、本当に頑張った。

大腸がんになり、とても大切なことがわかった。
それは、自分は多くの人達に支えられて生きているということ。
家族、友人だけじゃない、お医者さんや、会社の仲間も。
周囲の人達はみんな、中川さんががんを克服したことを知っている。
だから、みんなから「すごいことをした」と褒められる。

今はまた、昔のように仕事のことで悩んだり、愚痴をこぼすようにもなったが、しかしそれは、以前のように精力的に働く日々に戻ったという証拠だ。
働きすぎは体によくないと反省しつつも、残業を頑張ってしまうこともある。
だけど、これも元気になった証拠だと思うと心から嬉しい。

今は元気になったことで、これまで心配ばかりかけてきた母への親孝行が、少しはできたかなと感じている。

中川美和さんの詳しい「がん闘病記」、及び「インタビュー記事」はウェブサイト『ミリオンズライフ』に掲載されています。ぜひ、読んでみてください。

plus
大久保 淳一(取材・編集担当)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイトの編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト「5years.org」を運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。

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