大腸がん(S字結腸がん、ステージ3)人工肛門閉鎖後、トレラン復帰

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体験談のあらすじ

都会を離れて徳島県に移住した大友和紀さん。夢にまで見た田舎暮らしだったが、41歳のとき急な腹痛に見舞われる。病院で大腸の内視鏡検査を受けたところ、大腸がんが見つかった。腸閉塞も起こしていた。炎症を抑えるために人工肛門の手術を受け、腹腔鏡でのがん切除。リンパへの転移も認められたので抗がん剤治療をすすめられる。迷ったが、町の人たちの後押しもあって抗がん剤治療を受け、見事に回復する。

本編

念願の徳島での生活5年目。大腸がんが見つかる

大友和紀さん(取材時43歳/2016年当時41歳)は、25歳のときに四国八十八箇所巡り(お遍路さん)をしたことがきっかけで、いつかは四国の田舎に移り住みたいと思うようになった。当時は大阪に勤務していた。
2005年29歳のときに結婚、その後、田舎暮らしへの憧れを引きずりながら、2008年に東京へ転勤する。

東京へ来てから3年がたったある日、徳島県の勝浦町で働く人を募集していることを知った。「これだ!」と思い、妻に自分の情熱を伝えて説得する。
妻は兵庫県出身。
実家が近くなるということで受け入れてくれた。

徳島は自然が豊かで水も空気もおいしい。
大友さんにとっては最高の環境だった。
大友さんは田舎で暮らしたい若者たちが勝浦町に移住しやすいように手助けする仕事を始めた。
移住する前に田舎の生活を体験してもらうための住居(シェアハウス)の運営だ。

2016年8月4日
徳島での暮らしも5年がたち、大友さんも41歳になっていた。
この日の夕方、妻と一緒に山崎まさよしさんのライブに行く約束をしていた。
仕事を終え、車でライブ会場に向かっていると、突然、お腹がゴロゴロと鳴り出した。
痛くはないが、これまで体験したことのない大きな音だった。

翌日、事務所で仕事をしていると、急にお腹が痛くなった。
悪寒もする。
時間がたつに連れてどんどん痛くなる。何とか仕事を終えて、夕方5時半過ぎに町営の病院へ行った。
ウイルス性の胃腸炎と診断されて薬を出された。

ひと晩たっても体調は良くならない。
逆に痛みは増している。
なかなか立ち上がれない。
食事をすると気持ちが悪くなって吐いてしまう。これはただ事ではない。
大阪の友人宅に遊びに行っている妻にラインでSOSを送る。

次の日、予定を切り上げて妻が帰って来てくれた。
日曜日だったので、徳島赤十字病院の救急外来に車を飛ばした。

30分ほど待って診察を受けた。触診、レントゲン撮影では原因がわからず、
急きょ、大腸内視鏡検査をすることになった。

検査終了後、検査台で横になっていると、男性医師が入ってきて、大友さんの左手首に黄色のバンドを巻き付けた。
「何ですか、これ?」と聞くと、「入院になります」という答えが返ってきた。

「恐らく大腸がんです。腸内に腫瘍ができているため、腸閉塞を発症しています」
3週間は入院しないといけないと言う。

突然、「大腸がんです」と言われて驚いたけれども、大友さんが心配したのが仕事のことだった。
明日も明後日もやることだらけだ。
しかし、腸閉塞を起こしているので、急いで処置をしなければならないようだ。
だれかに代わってもらうしかないと腹を決めた。

1ヶ月前のことを思い出した。
がん検診の検査結果レポートが届いた。
「便潜血・陽性、大腸の精密検査をすすめる」と書かれていた。
予兆はあったのに「大丈夫だろう」と流してしまった。
しかし、1ヶ月前だから今とそんなに変わってなかっただろう。
あのときに気づいていればと後悔したところで、もっとみじめな気持ちになってしまうだけだ。

手術は無事に終わったけれども

腸閉塞の治療が始まった。
大腸内にバルーンを通して中に詰まっているものを出す処置をするのだそうだ。
大腸内の炎症がひかないと手術はできないと言う。
入院して2日後、医師から「なかなか大腸の腫れがひかないので、人工肛門を設置する手術をしたいと思います」と告げられた。

人工肛門……。
がんの告知以上にショックだった。

主治医の話によると、人工肛門を設置するのは大腸の状態を安定させ、炎症を早くひかせることが目的だということだった。
大腸がんの手術をしたときに人工肛門を外せる可能性もあるという。仕方がない。

8月10日、徳島赤十字病院で腹腔鏡による3時間ほどの手術が行なわれた。
麻酔から覚めてお腹を見ると、梅干しみたいに人工の肛門が取り付けられていた。
これで炎症が治まればステージ2と診断されている大腸がんの手術だ。

日記をつけ始めていた。正直な気持ちを書くことを努めた。
人工肛門の手術直後の日記にはこう記されていた。
「一応、ステージ2と言われているけど、余命宣告されたらどうしよう」

ほかにも、治療を終えたらやりたいことを書きならべてある。
1. 仕事の量を半分にしたい
2. 北アルプスに一週間ドライブ旅行
3. (7月に買い替えたオートバイで)1泊のツーリング旅行
4. レブンちゃんをお風呂に入れる。ノンちゃんと遊ぶ。マルくんとナミくんをしつける。
※4番のレブンちゃん以下は大切にしている愛猫たち。

とにかく、一日も早く治療を終えて、自由に動ける身になりたかった。

8月24日、腹腔鏡による大腸がん(S字結腸がん)の手術が行なわれた。周囲のリンパ節郭清も同時に行なわれ、7時間もかかる大手術だった。
目が覚めるとがたがた震え出した。寒くて仕方ない。
毛布をもらっても震えは止まらなかった。
かなり熱が出ていたのだろうと思う。

手術を終えて8日目。
主治医に呼ばれた。郭清したリンパ節27個のうち2個から活動性のがん細胞が見つかったと言う。
これにより、大友さんのがんのステージは3aに変更された。
このあと、抗がん剤治療をすることをすすめられ愕然とする。

翌日は退院の予定だった。
これですべてが終わると思っていたのに……。
打ちのめされた気分だった。
それに、抗がん剤治療には抵抗がある。副作用が大変だと聞かされていたからだ。

「再発率10%」の意味

抗がん剤は考えさせてほしいと主治医に伝えて、いったんは退院することにした。
実家の母親にも電話をした。
心配させたくなかったので事後報告になってしまった。電話口で母は泣いていた。
申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになった。
「抗がん剤治療をどうしよう」

そのことで頭がいっぱいだった。
隣のベッドにいた胃がんの患者さんのことを思い出す。抗がん剤治療をすすめられとても悩んでいた。
あのときは他人事だった。
まさか自分も同じことで悩むとは思いもしなかった。

抗がん剤治療を受けると再発率が10パーセントほど下がるそうだ。でも、体には大きな負担がかかる。果たして、10パーセントのために体にダメージを与えることは得策なのだろうか。すっきりしない。

町役場の知り合いに相談してみた。賭け事が大好きな彼はこう言った。
「確率の世界で10パーセントも改善するなんてすごいんですよ。ぼくだったら絶対にそっち(抗がん剤)を選ぶ」

この言葉が大友さんの背中を押した。
入院中もシェアハウスの運営を町役場の人や以前に世話をした移住者が手伝ってくれた。

とにかく、この町に住んでいる人は親切で、どんなことでも親身になって面倒を見てくれる。彼らの意見には耳を傾けたい。
よし、抗がん剤治療を受けよう。
大友さんは決断した。

9月30日、いよいよ抗がん剤治療(オキサリプラチンゼローダ)が始まった。
第1クールは無難に終わった。

ところが第2クールが始まると左手の親指が動きにくくなった。
しびれも出た。
副作用は徐々に蓄積していく。最初は投与後一週間くらいで取れた手のしびれが、第5クールに入ると取れなくなった。第6クールではひざから足の裏にかけてのしびれはまったくとれなかった。

主治医や薬剤師に相談すると、副作用の強いオキサリプラチンは6クールで終え、残りの2クールはゼローダだけにすることになった。
これでかなり副作用が抑えられるはずだ。
とにかく、どんなに苦しくても、「絶対に元気になるんだ」という強い気持ちだけはなくさないようにしようと心掛けた。

2017年4月20日、ついに抗がん剤治療が終わった。
解放された気持ちになり、心からほっとした。

しばらくして主治医から「人工肛門を取りましょう」といううれしい提案があった。
入院中からずっとお願いしていた。
それがやっと聞き入れられたのだ。

5月17日、人工肛門閉鎖の手術を受けた。
これで元の体に近づきつつあるという喜びがあふれてきた。

3ヶ月ごとに検査があった。順調に回復していたが、抗がん剤治療が終わって8ヶ月目の12月の検査で腫瘍マーカーが上がり出し、ドキッとした。
翌年の2月にはわずかながら基準値を超えた。
しかし、3月には再び基準値内に戻り安心した。

がんを体験してから「人の命には限りがある」ことを実感できるようになった。
だからこそ、「日々をきちんとていねいに生きなくてはならない」と強く思う。
漫然と生きるのではなく、自分がやるべきこと、大切なことに絞ってやっていく。
そんな生き方に変わった。

大切な趣味であるトレイルランニング(林道や登山道を走る)も再び始めた。
2018年には、徳島県で毎年行われている千羽海崖トレイルランニングレース(13キロの部)に参加した。まだ手足のしびれが残っているので、8キロくらいからつらくなったが、これも徐々に改善していくだろうと思う。

仕事は2~3ヶ月に1度は東京や大阪に出張できるようになった。
毎年恒例だった北アルプス山行も再開した。
確実にアクティブな自分が戻ってきている。

そして今、妻と4匹の愛猫とともに、徳島の豊かな自然に囲まれたぜいたくな生活に浸っている。

大友和紀さんの詳しい「がん闘病記」、及び「インタビュー記事」はウェブサイト『ミリオンズライフ』に掲載されています。ぜひ、読んでみてください。

plus
大久保 淳一(取材・編集担当)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイトの編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト「5years.org」を運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。

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