胃がん((腺がん、上皮内)進行ステージ1)家族の支えで乗り越えられた

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体験談のあらすじ

67歳の時に胃がんが発覚した中村玲子さん。3人の娘を育てながら、夫と一緒にクレーン車の会社を切り盛りし、学校の役員などの活動も精力的に行っていた。胃の半分を摘出し、がんは治ったものの、その後、ダンピング症状に苦しんだ。そんな中で中村さんを支えたのは、家族の献身的なサポートと励ましだった。

本編

パワフルなお母さん

滋賀県在住の中村玲子さん(取材時70歳/2014年当時67歳)は、三人の娘に囲まれ、夫と一緒にクレーン車の会社を運営していた。

中村さんは、子育てだけでなく、経理などの事務仕事から、社員にクレーン車の操作方法を教えることまでできる、パワフルなお母さんだ。

働き者の夫と二人三脚、全力で仕事をしてきた。

中村さんの子育てのモットーは、子供たちが大学を卒業するまでは、それぞれの夢の実現のために親として全力でサポートすること。
仕事が忙しいとか言い訳せずに、最大の愛情を娘たちに注ぎ応援した。

子どもたちの小・中学校、高校の役員もしたし、地元の商工会の役員もこなし、60代になると、民生児童委員に任命され、元気に活動していた。
今では、娘たちも成人し、結婚して孫も2人いる。

今まで大きな病気をしたことのなかった中村さんだったが、67歳の時に長女から「お母さん、がん保険に入りなよ」と言われて困惑する。
自分ががんになるとは思ってもいないが、少額で済む保険があったので、「まぁ、いいか」と加入した。2014年12月のことだった。

がんの発覚と家族

翌年の6月。急に声がかすれ、ガラガラ声になり、近所の耳鼻科クリニックを受診した。
蓄膿症だと診断され、薬も処方されたが、改善しない。

納得できず、草津総合病院の耳鼻咽頭科を訪れると、蓄膿症ではないという。
逆流性胃腸炎の可能性があるため、胃カメラで診ることにした。

もう少しで末娘の子供が生まれる。
出産後の手伝いをするため、胃カメラの検査は、出産日前の7月3日に行うことにした。

早く治して、かわいい孫の世話がしたい。
そんな思いで検査を受けた。

痛い検査だと思っていたが、あっという間に終わり、拍子抜けした。

6日後、孫娘が生まれ、中村さんは、娘と孫たちのお世話で大忙しとなった。

子育てと会社の仕事に追われた30代、PTA活動をがんばった40代、商工会役員の50代、民生児童委員の仕事をこなす60代。
そして今、可愛らしい孫たちに囲まれ、幸せな毎日。
2015年の夏は中村さんにとって思い出深い、至福の時間だった。

8月6日、草津総合病院で結果を聞くと2センチ大のがんが見つかったという。
一瞬耳を疑った中村さんは、「えっ、誰の…? 私ですか?」と困惑を隠せない。

特に自覚症状はなく、想定外のことを言われたため、泣いたり、パニックになることはなかったものの、これからどうすればよいかは全く思いつかなかった。

医師は早期発見のため、手術すれば問題ないと励ましてくれた。

病室を出ると娘や夫に「胃がん」が見つかったと連絡した。

みんな一様に驚き、びっくりしていたが、中村さんのことを案じ、明るい声で「大丈夫よ」と支えてくれる。

心配をかけ、申し訳ないと思ったが、とても嬉しかった。
家族がいれば、きっと乗り越えられる。
かわいい孫ともっと一緒にいたい。

8月8日、琵琶湖を彩る大津の「びわ湖大花火大会」の日。
例年通り、家族で長女のマンションに集まり、琵琶湖の花火を見た。

花火を眺めながら、8月が誕生月の中村さんはこう思う。
「今年の誕生日は、すごいプレゼント(=胃がん)をもらってしまった。でも、夫や娘たち、お婿さんたちでなく、自分でよかった……」そう思った。

守る立場から守られる立場へ

長女の勧めで、8月半ばに草津総合病院で受診すると、「胃がん(腺がん、上皮内)、進行ステージ1」だと診断された。
初期のため、幽門側胃切除という腹腔鏡下手術を受けることになった。胃の3分の2を切除するという。
https://www.ncc.go.jp/jp/ncce/clinic/gastric_surgery/050/030/index.html
https://ganjoho.jp/public/cancer/stomach/treatment.html )

手術は9月3日に行われるので、それまでは孫達と一緒に過ごした。
かわいい孫たちに囲まれていると、手術の不安は消えていく。
お世話をしに来たはずが、孫たちの明るさに元気づけられた。

そして迎えた手術の日。
胃の切除は当初の予定よりも少ない半分程度ですんだ。
無事に手術を終えたが、体が痛く、動くことができなかった。

「これからは、どんどん良くなっていくだけなんだから……」
がんの脅威がなくなったことを喜び、前向きに考えるようにした。

当初は点滴で栄養を取っていたが、お茶や重湯に切り替わると食べることができなかった。
胃がムカムカしてしまい、吐いてしまう。

そんな中村さんを次女が看病し、「一口でも食べれるのはすごいよ」と励ましてくれる。
その励ましの言葉がどれほど嬉しかったか。

手術が終われば、元に戻ることができると思っていた。
だが、胃が半分しかないため、消化不良がおこり、腹痛や胃痛、下痢や便秘が起こるという。
この「ダンピング症状」は患者により症状が違うので、気長に付き合うしかない。https://ganjoho.jp/public/cancer/stomach/follow_up.html

必死に食べるが、吐き出してしまい、手術前には53キロあった体重も39キロまで落ちてしまった。
ただ、娘たちが心配し、暇を見つけては病室に集まってくれたので、中村さんの個室は、まるで我が家のように笑いが絶えない、幸せな空間だった。

だが、食事がとれないことに対する焦りは消えない。
毎日食べたものを記録し、改善を試みたが、一向に良くならない。

そんな中村さんに「昨日よりもちょっとでも多く食べれたらいいんじゃないの」と娘が声をかけてくれた。

子ども達が成人するまでは、自分が子どもたちを守っているという自負があった。
でも、いま、こうして…、子どもたちが社会人になってからは、自分が子どもたちに守られている感じがする。
しかし、とても幸せだ。

ダンピング症状はつらいが、日が経つにつれて対処の仕方もわかり、少量なら食べられるようになった。

10月に退院すると、夫がサプライズでバラの花束とポインセチアの鉢植えをプレゼントしてくれた。
その優しさがとても嬉しかった。

退院してからも、ダンピング症状は続いたが、食べられるときには食事は小分けにした。
無理することはない。
ゆっくり、少量でも食べればそれでいいのだから。

退院1週間後、長女と二人で、宮崎市へ旅行に出かけた。
暖かい所がいいだろうと長女に誘われ、母娘2人の時間を楽しんだ。

その後、民生児童委員にも復帰し、徐々に元の生活に戻っていった。

未来への備えと生かされた命

2016年に入ると、家族全員で和歌山の白浜温泉に1泊2日で出かけた。
この旅行は、入院中に家族から受けたお世話に対する感謝の意味があった。
短い時間の旅行だったが、中村さんは「ここまで戻ってきた」という安堵感で胸がいっぱいになる。

翌年の2017年。
がんから2年目を迎えた。

中村さんの趣味のひとつにガーデニングがあり、庭にはバラが30本以上ある。
家の中には観葉植物や鉢植えが多くあり、2年前の退院の日、夫がプレゼントしてくれた花は挿し木をして増やし、今でもしっかり咲いている。

家族と周囲の人に恵まれ、大好きな花と過ごす至福の日々。
がんを患ってから家族の結束の強さを実感した2年間。
娘たちはもちろん、娘の婿たちも協力してくれた。

ふり返ると、長女に勧められてがん保険に加入したのが2014年12月。
当時、自分はがんにはならない、なんて思っていたが、その半年後に胃がんの告知。

がん保険は加入後、6ヵ月経たないと効力が発生しない。
半年と3日後に受診した胃カメラで、がんの診断が下りたため、ギリギリのところで保険金がおりた。
おかげで経済的にずいぶんと助けられた。

すべてが、ありがたいことだと感じる。
生かされた命。
これからはこの命を大切にし、かわいい孫たちの成長を見守りたい。

中村玲子さんの詳しい「がん闘病記」、及び「インタビュー記事」はウェブサイト『ミリオンズライフ』に掲載されています。ぜひ、読んでみてください。

plus
大久保 淳一(取材・編集担当)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイトの編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト「5years.org」を運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。

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