大腸がん(直腸がん、ステージ3)65歳まで勤め上げた

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体験談のあらすじ

40歳のころ、検診で便潜血が陽性になった。詳しい検査では問題なし。55歳のとき再び便潜血陽性。このときは大丈夫だろうと無視した。56歳でも陽性。再検査はしなかった。ところが57歳のときに人間ドッグで陽性になり、再検査を受けたところ、直腸がんが見つかった。人工肛門になるかもしれないと言われたが、手術はうまくいって、肛門も温存できた。ただ、退院後の生活は大変だった。それでも定年まで家族の支えで勤め上げることができた。

本編

便潜血検査で陽性反応が出る

埼玉県所沢市の加藤由正さん(取材時65歳 1992年当時40歳)は、大学卒業後、旅行会社に就職。
当時は格安航空券が市場に出始めたころで、チケットの仕入れから営業、現地のホテルの手配までを任され、仕事が面白くて仕方なかった。大学時代からお付き合いしていた女性と23歳のときに結婚。2人の娘に恵まれ、家庭生活も順風満帆だった。

あるとき、取引先の大手食品会社の担当者から「うちに転職しないか」と誘われた。
社員が出張するとき、自社で航空券やホテルを手配するのでエキスパートを探していると言う。
加藤さんは今の仕事に不満はなかったけれども、キャリアアップのいいチャンスかもしれないと、転職を決意した。

その年の健康診断。便潜血に陽性反応が出た。初めてのことだった。
「がんかもしれない」
心の中がざわついた。子どもたちはまだ小さいのにどうしたらいいのか。ネガティブな方に気持ちが傾いていく。

しかし、詳しい検査を受けたところ、まったく異常なし。ほっと胸をなで下ろした。

時は流れて2008年。加藤さんは55歳になっていた。健康診断で便潜血に陽性反応が出た。
15年前と同じだった。再検査をした方がいいというコメントが添えられていた。
しかし、どこかに不調があるわけではない。仕事が忙しくて再検査を受ける時間もない。
「きっと15年前と同じように異常なしさ」そう決めつけて、そのまま放置しておいた。

翌2009年。またしても便潜血陽性。大丈夫に違いないと聞き流してしまう。

定年を3年後に控え、人間ドックを受けた。

2010年。会社は60歳が定年。あと3年だ。
会社でも年金などの経済的な制度、再雇用制度などの説明会があった。
定年が現実味を帯びてくる。
長女は仕事でイギリスにいる。妻と社会人となった次女の3人暮らし。
父親としての役割は果たすことができた。あとは自分がどう生きるのか、60歳のあとの人生について真剣に考えないといけない。

そんなことを考えていたころ、健康保険組合から送られてきた「人間ドック」に関するお知らせが目に入った。
同じ時期に会社の健康診断もあったが、定年を意識し始めたこともあって、せっかくだから受けてみようという気になった。

結果は健康診断と同じで、便潜血が陽性だった。
もう慣れっこだった。
自宅に郵送されてきた結果レポートも無造作にテービルの上に置いたままにしておいた。

そのレポートを次女が目にした。「陽性」という結果を心配した次女から「どうして再検査を受けないの。再検査を受けないなら家族一緒に外食に行かないから」と冗談交じりに脅され、加藤さんは仕方なく検査を受けることにした。
家族3人で出かける外食は加藤さんの楽しみの一つだったのだ。

再検査で直腸がんが発見される

2011年1月。加藤さんは所沢中央病院で検査を受けた。大腸内視鏡検査だった。
2リットルの下剤(ニフレック・腸管洗浄剤)を飲んで腸を空っぽにしてから内視鏡検査が始まった。

始まってすぐに、担当した若い医師が「えっ」と声を上げた。
すぐに主治医が呼ばれた。
空気が重々しくなった。
大腸に異変があるようだ。モ
ニター画面を見ながら「あー、これだあ」と2人の医師が話し合っているのが聞こえた。

1週間後、検査結果が告げられた。
「がんですね。直腸がん。肛門から2センチくらいのところに直径4センチのがん。開腹手術ですね」

テキパキと説明してくれる。
あまりにもあっさりとスピーディに話され、加藤さんの思考が追いつかない。
病院を出てから「そう言えば、さっきがんだって言ってたよなあ」と診察室でのことが甦ってきた。

「そうか、がんか。死ぬのかな」
ぼんやりと考える。
まるで他人の身に起こったことのようだった。

自宅へ帰って妻と次女に伝えた。
妻はかなり驚いていたが、今後のことは加藤さんに任せると言う。
次女は「そこの病院はどれくらいの実績があるの? どこで手術を受けるの?」と質問を次々と繰り出した。
次女の話を聞いているうちに、加藤さんも徐々にがんを自分事としてとらえられるようになった。

「セカンドオピニオンを受けてみよう」

1週間後、主治医にその旨を伝えた。
主治医は快くがん研有明病院に紹介状を書いてくれた。セカンドオピニオンを受けて良かったと加藤さんは思っている。がん研有明病院の医師は「紛れもなく直腸がんです。でも、手術は成功しますよ。死にません」と力強い言葉をくれた。
ただ、人工肛門 になることは避けられないだろうというのが、医師の見立てだった。

さらに、加藤さんは国立がん研究センター中央病院もセカンドオピニオンを受けた。
後から知ったが、診察してくれたのは60代の直腸がんの治療では有名な医師だった。
「肛門を残せるかもしれない」と言われ、加藤さんはこの医師に任せようと決めた。

退院後、便のコントロールに苦労する

会社にがんのことを伝え、4月から検査が始まった。
大腸内視鏡検査、血液検査、レントゲン、心電図検査、生検などを終えて、「進行性大腸がん(直腸がん)、ステージ3A」と診断が確定した。
手術日も5月16日に決まった。

改めて家族3人で説明を受けた。専門的なことはよくわからなかったが、主治医が内視鏡の画像を見ながら、「レンブラントの絵みたいですね」と言ったのはよく覚えている。レンブラントとはバロック期を代表する有名な画家だ。

5月14日に入院。案内されたのは15階にある4人部屋だった。窓からの景色がすばらしい。
レインボーブリッジお台場のフジテレビ東海道新幹線、汐留の高層ビル群。高級ホテルに来たみたいだと思った。

翌々日、手術が行なわれた。
目が覚めると、「手術、うまくいきましたから」と看護師から言われた。
うれしいことに肛門も温存されている。

翌日には点滴棒をもって歩いた。
たった5メートルだったが、歩けることが妙にうれしかった。

困ったのは大便のコントロールだった。
直腸を切除しているため便意をもよおさない。
肛門の開け閉めもうまくできないので、自然に便が出てきてしまう。
情けなくなる。

手術から8日後の5月24日は加藤さんの58回目の誕生日だった。
流動食が始まった。
今年のバースデープレゼントだと思うとありがたくてたまらない。
「いよいよ、ここからがスタートだ」
気持ちが高ぶってきた。

6月1日、20日間にわたる入院生活が終わって退院。
これからは自分と家族で管理していかないといけない。
まずは食事。
入院前に68キロあった体重は60.5キロまで減っていた。
体力をつけるためにも食には気をつかわないといけない。
書店で大腸がん患者向けのレシピ本を買ってきて、妻に食事管理をお願いした。

運動も積極的に行った。
万歩計をつけて歩く。
少ないときで4000歩、多いときには1万5000歩も歩いた。
車の運転もできた。

6月27日には復職した。
仕事ができるようになって、やっと回復したという実感があった。
毎日、妻が弁当を作ってくれる。
レシピ本を参考にしながらあれこれ工夫したメニューだ。
改めて妻のありがたさを実感した。

通勤には苦労した。
注意していないと、電車に乗っているときに自然に便が出てしまう。
常に紙おむつをつけ、5枚を予備として持ち歩いていたが、帰宅するころには使い切ってしまう。
途中下車することも多く、会社までの駅のどこに多目的トイレがあるかも、すっかり頭の中に入れた。

術後の補助療法としての抗がん剤(ゼローダ)服用はしばらく続いた。

1日10錠を2週間連続で飲み、その後1週間は休むというペースで、これを8クール行った。副作用は出た。
手のひらが赤くてかり、足の指の付け根に水泡ができ、足の小指の爪が抜けた。

定期検査は年に4回。そのうち2回はCT画像検査だった。

2016年、5年目の検査で便潜血に陽性反応が出てひやっとしたが内視鏡の検査では問題なかった。
いろいろあったけれども、節目の5年が過ぎた。
ひとまずはほっとした。

振り返れば、40歳のときに陽性反応が出て、ここは問題なかったが、55歳のときの陽性反応を無視したのはまずかった。
あのときに再検査をしていたら早期発見だっただろう。治療ももっと楽だったかもしれない。

がんの体験をお話してほしいという依頼もある。
そのときには、闇雲にがんを怖れるのではなく、正しい知識をもって対処することの大切さを伝えるようにしている。

2017年、65歳になってサラリーマン生活に一区切りつけた。
幸せなサラリーマン人生だった。
未来のことはよくわからないけれども、できるだけ楽しく生きたい。
そんな思いで60代後半から70代、80代と、いい老後を過ごしていきたいと思っている。

加藤由正さんの詳しい「がん闘病記」、及び「インタビュー記事」はウェブサイト『ミリオンズライフ』に掲載されています。ぜひ、読んでみてください。

plus
大久保 淳一(取材・編集担当)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイトの編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト「5years.org」を運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。

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