悪性リンパ腫(ステージ2)再びキャリアの世界へ

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体験談のあらすじ

お酒の卸業者で営業職として頑張っていた野崎美穂さん。30代後半から昇進もし、40歳で課長になったが、悪性リンパ腫と診断される。「がん、死」というイメージがあったので、ショックだったが、医師から「今ではリンパ腫は治る病気だ」と言われたことで、抗がん剤治療に対して前向きな気持ちになれた。治療のために半年ほど休暇をとったが、それは野崎さんにとってはちょうどいい心の休養にもなった。治療後、職場復帰も果たし、再び活躍の場を広げている。

本編

順調な昇進と重くなる責任

東京都練馬区在住の野崎美穂さん(取材時43歳/2015年当時40歳)は、大学卒業後、お酒の一次卸会社で営業として働いていた。

酒類販売業界は男性中心で、女性の営業職は数少ない。
それゆえの苦労も多いが、多くの実績をあげることもでき、やりがいを感じていた。

2012年のときに38歳で副課長に昇進した。
女性管理職の登用を歓迎する風潮が出始めたころだった。
実力が認められたのは嬉しかったが、自分に務まるのか不安もあった。

その後、2015年6月、40歳で課長に昇進するが、あまりにも早く昇進してしまい、野崎さんは戸惑いを感じた。

営業の現場では、責任も重くなったが、取引先の担当者も男性ばかりで、思ったように仕事が進まない。結果を出せないことに悩んだ野崎さんは、精神的に参ってしまった。

週末に家にいても、家事ができず、得意な料理もやる気がでない。
外出も億劫だった。

「仕事を辞めたい……」
そう思っても、周りへの影響を考えると誰かに相談することもできない。
この状況を抜け出すにはどうすればいいだろう。

もっと仕事が出来るようになれば、すべては解決するはず。
そんな風に自分を責めて、我慢ばかりしていた。

しかし、ベットに入ってもなかなか寝つけない。
一日中、体がだるく、集中できない。

精神疾患の兆候が出始める。
病院に行っても睡眠導入剤を処方されるだけだろうと、様子をみることにした。

ストレスと体の異変

6月頃から、食べ物が喉に詰まるようになった。
特にランチのときにその感じが強くなる。
もしかして、何か病気なのかな?
いっそ病気だったら、仕事を休めるのに。
いつしか、野崎さんは全てから逃げ出したいと考えるようになっていた。

自分の症状をネットで調べると、ストレスや加齢が原因だと書かれているものばかり。
結局そのままにしていたが、他にも異変が出始める。

階段では息が切れ、手すりを掴まないと3階まで上ることができない。
7月に入って、左腕の二の腕だけが太くなっていることに気づいた。よく見ると、顔もむくみ、手のひらに発疹も出ている。

家族や友人から病院へ行くよう勧められ、9月20日に内科クリニックを受診した。

手の発疹や腫れあがった左腕を見た医師は、原因不明だと言う。
首の左側が腫れ、鎖骨のくぼみが見えなくなってきたことを話すと、医師の顔色が変わった。
触診し、リンパ腫の可能性があるのですぐに大きな病院で検査をするようにいう。

リンパ腫、、
野崎さんはそれが血液がんの一種だと知っていた。
がんの可能性があるなんて、首を触っただけでわかるのだろうか。
この医師の判断については半信半疑だった。

9月24日に東京警察病院に行った。
総合内科で触診を受けるとリンパ腫ではなく、血栓だろうと言われた。
野崎さんは安心した。

しかし、念のために撮ったレントゲンに腫瘍が映っていた。
胸の縦隔に腫瘍があるという。
現段階では、悪性か良性かわからない。

今まで、病気で仕事を休みたいと思っていたが、それは治る前提だ。
死の可能性がある病気なんて……。
良性だと信じたかったが、悪性のような気がしていた。

「悪性リンパ腫は治る病気です」

翌日、医師から「胸腺腫(きょうせんしゅ)だと思います」と、あっさり病名を告げられた。
胸腺腫の場合、ほとんどが悪性だ。
放射線治療で腫瘍が小さくなったら開胸手術をする。
ただ、この病院には呼吸器外科がなかったので、がんセンターの紹介をされた。
がんという言葉が心に重くのしかかる。

病気について調べると、1ヶ月くらいで仕事に復帰している人もいた。
「なってしまったものは仕方がない」
そう割り切った。

9月28日に生検を受けた。
首元にメスを入れ、組織を取り出す必要がある。
手術着に着替え、点滴を受けると嫌でも病人になったことを自覚した。

生検の結果、胸腺腫ではなく、悪性リンパ腫だった。
付き添ってくれた夫は、ショックを受け、何も話すことができなかった。

医師は、専門用語を交えて今後の治療法を淡々と説明している。
しかも、胸腺腫ではなく、リンパ腫でよかったと喜んでいた。
野崎さんには何を言っているのかわからなかった。
「悪性リンパ腫は治療が難しい病気なのに、一体何がいいというのだろう……?」
喜ぶ医師とは反対に、野崎さんの気持ちは沈むばかりだった。

ただ、今までの不調は、自分が精神的に弱いから起こったのだと思っていたが、病気のせいだったとわかると、救われた気がする。

10月22日、がんセンター中央病院・血液腫瘍科に転院した。
医師は、縦隔原発の悪性リンパ腫に間違いないが、リンパ腫はもう治る病気だと力強く断言した。

その言葉は、野崎さんの心に響く。
ようやく希望が見えた。

前向きな気持ちで始めた抗がん剤治療だったが……

通常、R-CHOP療法が、縦隔が原発の場合はR-CODOX-M/R-IVAC療法を勧められる。
副作用はきついが、効果は高く比較的短期の入院で済むのだという。
入院期間は4ヵ月。

治る病気だとわかり、不安は消えた。
そうなると、今度は半年ほど会社を休めることが嬉しかった。

骨髄穿刺(こつずいせんし、マルク)、胃の内視鏡検査、心電図、PET-CT画像検査の検査を行い、「縦隔原発びまん性大細胞型B細胞悪性リンパ腫(ステージ2)」であることが確定した。

10月31日に入院し、11月3日から抗がん剤治療(R-CODOX-M療法)が始まった。
シクロフォスファミドドキソルビシンオンコビンメトトレキサートリツキサンの5種類の薬を11日間投与する。

さっそく、吐き気や手足のしびれ、骨髄抑制、口内炎、粘膜障害に下痢などの副作用が出る。
指先の皮がむけ、ペットボトルの蓋すら開けられない。

1クールを終えて、1泊2日の外泊をした。
家族と過ごし、生きていることを実感した。
病院に戻るときには、「なぜがんになってしまったんだろう」と泣きそうになった。
またきつい治療が始まる。

今回の治療は、第1クールをR-CODOX-M、第2クールをR-IVAC療法を2往復行う治療だ。
11月30日からイフォマイドキロサイドエトポシド、そしてリツキサンの4種類を投与するR-IVAC療法が開始。

とうとう髪が抜け始める。
病院内にある理容店で丸坊主にした。
美容師は抗がん剤により、髪を切ることに慣れているのだろう。
迷いなく、バサバサと切っていった。

自分の一部を失うこと。
他者に雑に扱われるみじめさ。
あまりにも辛く、その場から動くことができなかった。

その一方で、抗がん剤の威力は凄かった。
1クール目で左腕のむくみは消え、腫瘍も小さくなる。

副作用の備え、スタッフは的確に対処してくれた。
貧血が起こる前に輸血、吐き気が出る前に制吐剤と、少しでも野崎さんが楽になるよう、動いてくれる。

野崎さんの入院中の楽しみは、お見舞いに来てくれる人たちと話すことだった。
家族だけでなく、友人たちとたわいのないことを話す。
その時だけは、がんのことを忘れることができた。

だが、抗がん剤治療は、必ずしも順調ではなかった。
野崎さんの場合、骨髄抑制が大きく、白血球の値が100(正常値:3,500~9,000/μL)となる場合もあった。
消費期限が切れた生チョコをうっかり食べ、腹痛に苦しんだこともある。
帯状疱疹(たいじょうほうしん)も出てしまい、ナースコールを押すほどつらい思いをした。

癒しの場とこれからの生き方

「がん患者だって、メイクをしていいのよ」

ある日、アピアランス支援センターのセンター長をしていた野澤桂子さんにそんなことを言われた。
今まで病人だという意識が強く、メイクをしても良いかわからなかった。
今まで当たり前にやっていたことをしてもいいと言われると、気持ちが楽になる。

入院病棟は、野崎さんにとって癒しの空間だった。
看護師さんや掃除のおじちゃんとの何気ない会話が楽しかった。
以前の生活とは異なり、入院病棟の環境が優しく感じられた。

仕事をしているときよりも肌の調子もよくなっている。
ストレスから解放されたからか、気持ちも楽になっていった。

2016年2月5日、抗がん剤治療を終了し、退院。

3月3日に、PET-CT検査を受けると、がんがなくなっていた。
闘病生活が終わった。

復帰の4月末まで、野崎さんには時間がたくさんあった。
けれど、脚の筋力が弱まり、体力もないので、自宅療養中だったが、体を動かそうと、温泉旅行や海外旅行へ行った。
体力の回復をしながら思い出を作ることもでき、一石二鳥だった。

6ヵ月ぶりに出勤すると、元の部署ではなく新しい職場になっていた。
知り合いがいない職場は寂しかったが、仕事を減らしてもらったので、仕事自体は以前よりも楽になる。
がん患者の中には、休職できずやめた人や、復職できなかった人がいることを知っている。
それを考えると、無事に復職できたことを幸せに思う。

がん治療を終え、2年が経つ頃、野崎さんは、以前のようにバリバリ働くようになっていた。
アメリカの映画監督が所有するワイナリーからオーナー夫人が来日した際は、会食をする機会にも恵まれた。
再び活躍の場を広げ、新しい姿勢で仕事に取り組み、充実した毎日を送っている野崎さんだ。

野崎美穂さんの詳しい「がん闘病記」、及び「インタビュー記事」はウェブサイト『ミリオンズライフ』に掲載されています。ぜひ、読んでみてください。

plus
大久保 淳一(取材・編集担当)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイトの編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト「5years.org」を運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。

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