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体験談のあらすじ
退職し新たなキャリアを模索していた大塚美絵子さんに進行した卵巣がん(漿液性、進行ステージ3)が見つかる。腹水が溜まり一刻も早く抗がん剤治療を開始する必要があるにもかかわらず、それができない。51歳にして死の予兆すら見えてきた彼女のがんとキャリアに向き合う闘病・社会復帰記。
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本編
「残念ながら、来年(という時間)は無いかもしれません…」
前の病院の内科医がそう言っていたと知らされた。
「大丈夫。でも、(私は)きっと大丈夫」
根拠のない自信だけはあった。
妊婦のようなお腹
2012年、埼玉県さいたま市に住む大塚美絵子さん(56歳、2012年当時51歳)は、お腹の周りが太り出した。
洋服は7号から9号にサイズアップ。
しかも、何とも言えぬ倦怠感があり体調が良くない。
夜中に寝ていると大量の汗をかく。
「きっと更年期が始まったんだろう」
そんな程度にとらえ心配はしていなかった。
しかし6月に入り、様子が明らかにおかしくなる。
胴囲が毎日、確実に大きくなっていくのだ。
実家に帰るとそのお腹を見て驚いた母親が言う。
「なに、これ!今すぐ(近所の)クリニックに行って診てもらいなさい!」
妊婦のように大きなお腹になっていたが何か痛みが伴うわけでもない。
だから、まさか命にかかわるような病気が進行しているとは思いもしなかった。
クリニックの診察室に入ると医師が腹部を診て表情を変える。
その瞬間、ぞっとしてあることを思い出した。
「がんかもしれない…。そうだ私は被ばく2世だった」
神妙な面持ちの医師
クリニックから実家に戻ると大急ぎで東京港区にある東京大学医科学研究所付属病院に連絡した。
2年前に蕁麻疹(ジンマシン)が発症したとき診てもらい、その後かかりつけ病院のようになっていた。
久しぶりに会った内科医は大塚さんのお腹を見るなり表情を一変させる。
「この先生も怖い顔になった…」
ことの重大さがわかり始めた。
この日、いろんな検査が行われ、1週間後に検査結果が知らされることになり帰宅。
しかし体調は日に日に悪くなり、ついにお腹がパンパンに膨れ上がり歩くのもやっとの状態になる。
身体は常にだるい。
ちょっとした坂道でも急こう配の山道を登っているかのように息が切れる。
7月9日、予定通り検査結果を聞くために再び病院を訪問。
いつも温和な表情の内科医が神妙な面持ちで切り出し、国際医療福祉大学三田病院を紹介された。
がんの告知
東大病院での検査データをCDに落とし込んでもらい早速三田病院に向かった。
三田病院の担当医師は診察室で自己紹介をするや否や、こう言う。
「これは卵巣がんに間違いないと思います。ただ腫瘍が大きすぎるので直ぐには手術が行えません。だから、まず抗がん剤治療から始めて腫瘍が小さくなったら手術して取りましょう」
まず「ヘパリン」(抗凝固剤)と言う薬を点滴で落とし、血管内凝固のリスクを下げる処置が行われた。
しかし、点滴を開始して5日後、血液データのうち肝機能のマーカーが異常値を示した。
医師たちの表情が曇る。
なぜなら、これでは抗がん剤治療を行えないからだ。
結局、治療スケジュールは一旦撤回。
「がんが進行しているのに私は何も治療を受けられない」
あまりにものショックで、ベッドの中に埋もれるように横たわった。
エンディングノート(人生の終わりに向けて)
がん患者にとって治療が行われないことほどつらいものはない。
がんが進行しているのに指をくわえて見ているようなものだ。
自身の無力さから、がんばろうとする気力を失いだす。
大塚さんは好転しない状況に死の予兆を感じ始めていた。
「これからどうなるのだろう…、いま自分にできる事は何かないだろうか?」
そんな思いからエンディング・ノート(残される人たちに自分の思いを書き留めた文章・手紙)を綴り始めた。
涙を浮かべながら一人一人にメッセージを書き上げてゆく。
家族、友人、恩師、会社の人たち、医師…
丁寧に書いていった。
肝機能を回復させる治療に移って3日目、運良く血液データが改善し始める。
そして7月24日から抗がん剤(パクリタキセル+カルボプラチン)全身化学療法が開始。
抗がん剤の効果は劇的だった。
8月の中旬には腹水がなくなり、腫れていたお腹は普通の状態まで戻る。
何のために生きているのか
抗がん剤治療3クールの終わりに担当の医師からこう言われる。
「いよいよ手術に移りましょう。今月一旦退院して自宅でリフレッシュして体力をつけてください。オペは再来月の11月13日の予定です」
抗がん剤の副作用で体力を失っていた大塚さんは自宅に戻り、徐々に元気になり出した。
しかし一人でいる時、無性に心が沈んだ。
「私は何のために生きているのか?がん治療のために生きているなんて嫌だ。治療が終わっても、その後どうしたらいいのか…」
治療後の人生のビジョンが描けず苦しんでいた。
手術は無事に終わり1ヵ月ほどで退院。
ただ年が明けたら予防的治療として抗がん剤(パクリタキセル+カルボプラチン)治療を3ヵ月間行うという。
薬の効果は実感していたが、ようやく手術が終わり一区切りつけたにもかかわらず再び治療が始まることにうんざりした。
2013年3月、2度目の抗がん剤治療をやり遂げた大塚さんは形容しがたい解放感を味わった。
がんから2年を目指して
卵巣がん発覚から、抗がん剤治療、手術、更に抗がん剤治療。
大塚さんにとっては試練ともいえる大変な年だったが、それを乗り越えた。
9ヵ月間に及ぶ治療を終え安堵するが、不安は尽きない。
なぜなら卵巣がん(ステージ3)の場合、2年以内に再発する確率が70%という統計値を見たからだ。
「2年以内に3人に2人が再発する…」
その事実に何とも言えぬ恐ろしさを感じた。
一方、2年間不安を感じ委縮した様な生活を送るよりは、思いっきり人生を楽しもうとも思い始めた。
「ここからが私の人生。やりたいことは我慢しないぞ」
4月に入ると、四国の金毘羅歌舞伎の鑑賞の旅行に出かけ、
8月にはオーストリアとドイツを3週間かけて巡る旅行にも行った。
抗がん剤の副作用で手足にしびれが残っている。
体力だって、まだまだ回復途上。
それでも積極的に外を出歩くことで自らの社会復帰を進めようとしていた。
放り出された感じ
がん治療を終えたが、自分の存在価値を自問し苦しみ出した。
「(卵巣がんから)生き延びたけれど、これからどうしよう…」
傷病手当を受けているが働いていないから経済的に苦しい。
一方、自分がやりたいこと(仕事)が見つからない。
まるで「放り出された」ようで、どうしたら良いのか解らなくなっていた。
治療を終えてからの2年間は人生を楽しむために、旅行に行ったり、外に出かけて過ごしていた。
それはそれで楽しいのだが「(働き盛りにもかかわらず、仕事を通じて)社会に参加できていない」ということに焦りと虚しさを感じ出す。
そんな思いが一層自らを苦しめる。
ビジネスへの挑戦
大塚さんの場合、がん治療の影響で脚に浮腫の前兆のような違和感があり悩んでいた。
一方、浮腫を抑えるストッキングについて様々な問題を感じていた。
高価な品物の割には買う前に試着する機会がなく、履き心地が解らないまま買わざるを得ないこと。
購入して履いてみると想像と違って満足いかないこともある。
ドイツ製のストッキングが高品質だと聞くが、多くの患者にとっては疎遠でなかなか入手できない。
だから、ドイツ製の商品を小売り販売することを思いつく。
「これなら自分の得意分野の英語とドイツ語を使えるし、がん患者の経験も活かせる」
2016年、リンパ浮腫を抑えるドイツ製のストッキング販売ビジネスを立ち上げた。
ビジネスを軌道に乗せるのはまだまだこれからだが、この挑戦が楽しい。
お店の名前は「リンパレッツ」
がんから生かされた者として、がんサバイバーの生活を快適にするお手伝いをしたいのだと言う。
2017年、がんから5年、大塚さんは再び活躍の場に戻っている。
監修医師よりコメント
大塚美絵子さんの詳しい「がん闘病記」、及び「インタビュー記事」はウェブサイト『ミリオンズライフ』に掲載されています。ぜひ、読んでみてください。