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体験談のあらすじ
病弱な母親を最後はがんで看取った依田福恵さん。子どもの頃から、自分を抑えて母の看病を優先して生きてきた。そんな依田さんが母の死後、長年連れ添ったパートナーもがんで失い、さらに自らも乳がんに。過酷な人生の中に希望を見出して生きようとする依田さんのストーリーを紹介する。
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本編
母親の看病にあけくれた青春時代
振り返ると、依田福恵さん(取材時54歳、2014年当時49歳/東京都東村山市在住)の母親は、依田さんが子どもの頃から“病弱な人生”だった。
依田さんがまだ幼稚園にも通っていない3歳の頃、母親は持病の椎間板ヘルニアが悪化して手術をしていた。
すでにその頃から「お母さんは腰が痛いんだ。だから抱っこしてとか、おんぶしてとか言っちゃいけないんだ」と、甘えたい気持ちを我慢することを覚えた。
依田さんが中学1年の時、母親は難病指定されている骨化症を発症。脊椎を構成している組織の一部が自然と石灰化するという病気だ。
一人っ子の依田さんは「私がしっかりしなくちゃいけない」と、母親が体調を崩すたびに、看病に明け暮れた。
依田さんが中学3年になって間もない頃、母親は、今度は乳がんを患った。
父親はタクシー会社で事務方のサラリーマンだった。
会社が年中無休体制のため、いつも仕事中心で、家族との時間は少なかった。
しかも、幼い娘との接し方がわからなったのか、会話の少ない父と娘だったから、依田さんが多感な年頃でも、家の中は寂しい状態だった。
依田さんが25歳の時、骨化症が悪化した母親は手術を受けるも、自力で立ち上がれなくなってしまい、50代半ばで車椅子生活になる。
この頃、依田さんは、大手の建設会社で派遣社員(後に契約社員になる)として働いていた。
自分とは対照的によく泣く母を依田さんは羨ましく思っていた。
母親でありながら精神的には弱い母と、娘でありながら精神的に強い自分。不思議な母娘だった。
依田さんが31歳の時、母親は胆管がんを発症。すでにかなり進行していた。
普段から会話の少ない父が、週末、出掛けようとしていた依田さんを玄関先で「ちょっと」と引き留める。
「お母さんなぁ、がんで残り3カ月くらいだっていうんだ。先生にそういわれた」
衝撃で落胆すると同時に、そんな大事な話を、娘の出かける前に声掛けで伝える父に失望した。
家を出て歩いているうちに、こみあげてくる辛い気持ちを抑えきれなくなった。
たまらず、交際相手の孝之さん(仮名)に電話をした。
孝之さんは仕事中だったが、会いに来てくれた。涙が止まらない依田さんの気持ちに寄り添うように、「うん、うん」とただひたすら聞いてくれた。
そして「俺がついているから、一緒にがんばろう」といってくれた。
この言葉が、依田さんの心の支えとなった。
恋人の存在
依田さんより10歳以上年上の孝之さんは、依田さんにとって、どこか父親的存在というか、兄というか、頼りがいのある存在だった。
しかし、孝之さんには離婚歴があり、前妻との間に娘がいた。その娘の強い希望で、孝之さんは再婚もしないし、恋人もつくらないことになっていた。
だから、依田さんにとって、大切な人にもかかわらず、結婚することができない恋人だった。
孝之さんは従業員10人程度の建設関係の会社を経営していた。孝之さんの第二のオフィスを住居兼とし、依田さんは週末になるとそこで食事を作って一緒に食べていた。
2人はとても仲の良い、夫婦同然の関係だった。
そんな生活を20年もした2013年10月、孝之さんが、「会社の健康診断で、胸のレントゲン画像に影がみつかった」という。
翌年1月、孝之さんは肺がんの告知をされる。
間質性肺炎も発症しているため、手術での切除はできないから抗がん剤治療をすることになったという。
「がんばって治すからさ。心配しないで」という孝之さんの言葉を、依田さんは信じた。
2月から孝之さんの抗がん剤治療が始まる。
しかし、孝之さんから「病院には来なくていい」と言われていた。
病気の自分を見られたくないという思いからだったろうが、依田さんと娘が病院で鉢合わせしないように配慮したのもあったようだった。
通院による抗がん剤治療を始めて3カ月経った頃、「肺の影が小さくなっているから、このまま頑張れば良くなるよ」と孝之さんからいわれ、依田さんは安心した。
それからも定期的に会っていたが、8月に異変が起こる。
孝之さんが杖をついて現れたのだ。脚に力が入らないといってヨタヨタしている。
依田さんの心配が膨らんだ。
9月になるとふらつき方が明らかに悪化していた。玄関先で靴を履こうとして尻もちをついてしまったのだ。
「抗がん剤の副作用って、こんなに強く出るものなの……?」
その時は副作用だと信じていたが、翌週、孝之さんと連絡はつかなかった。
孝之さんの友人男性に電話すると、数日後、返事があった。
「実はね、脳にがんの転移が見つかって、即入院になったんだ」という。
驚いた依田さんは、すぐに孝之さんの入院先の病院に行きたかったが、「来てはいけない」という孝之さんとの約束がある。
二人は世間から後ろ指を指されるような関係ではなく、独身者同士なのだが、彼の娘さんには内緒の関係だから会いたくても会うことができない。
つらい日々が過ぎていった。
胸のしこり
そんなある日、依田さんは、入浴中に乳房のチェックをしていて、手が止まった。
「しこりがある……」
とりあえず、週末にかかりつけの婦人科で診てもらうことに。
超音波検査を受けることになった。
一方、孝之さんの安否については、友人から「転移した腫瘍が放射線治療で小さくなっている」といわれ、安心した。
依田さんの超音波検査は、大きな病院での診断をすすめられ、国立がん研究センター中央病院で検査することに。
しかし、母親の乳がんと胆管がん、孝之さんの肺がんと、身近にがんを見てきた依田さんにとって、衝撃はなかった。
国立がんセンターでの検査の前夜、依田さんの携帯電話が鳴った。
「なんだろう、こんな時間に……」
電話に出ると、
「こんな夜分遅い時間に申し訳ありません。実は社長(=孝之さん)が今日、亡くなられました」
あまりにも唐突な報せだった。
その社員の説明では、死因はがんそのものではなく、治療していた他の病気が悪化したからだという。
ついに一度も見舞いに行けなかった。
それなのに、もう二度と会えなくなってしまった。
静まり返った真夜中の部屋でただただ茫然としていた。
乳がんの宣告
翌日、依田さんは予定通り、国立がんセンター中央病院へ行った。
きちんと検査をする必要があるからと、CT画像検査、超音波検査、マンモグラフィー、血液検査を3日間に分けて行うことに。
検査結果を聞くのは、2週間後。
この時のことを依田さんは今でもよく覚えていない。
検査を受けている間も孝之さんの死を信じられず、流されているような毎日だった。
結果を聞く日、医師は依田さんを見て驚いた顔をした。
「ひとりで来たの?」
孝之さんがいない今、その言葉が胸に突き刺さった。
「結論からいうと悪性のがんです。でも、そんなに大きくないから手術で取りましょう」
医師はそういった。
もし、孝之さんが生きていたら、こんなつらいこと1人で聞かずに済んだ。一緒に聞いてくれただろうに。
打ちのめされたような気分なのに、これからいろいろと大事なことを1人で決めなくてはならない。
手術は全摘にするのか、部分切除か?
乳房の再建はやったほうがいいのか?
2人で一緒に暮らしたマンションの解約手配や家具の処分もやらなくちゃならない。
あふれる涙は止まらなかった。
マンションの方は友人に手伝ってもらいながら少しずつ整理した。
22年間の思い出の品々を捨てることは断腸の思いだった。
乳がんの手術は、左胸の全摘と同時再建の手術をすることにした。
医師の説明から、それがオススメのように聞こえからだ。
もし孝之さんが生きていて、そばにいてくれたなら「胸の1つや2つ、なんてことないじゃん」と明るく言ってくれただろう。
でも、その人は隣にいない。
10時間以上かかった手術は無事に終わった。
浸潤性乳管がん トリプルネガティブ 遺伝性乳がん(BRCA2異変)ステージ1
左胸を全摘し、下腹部にある組織を切り取って、胸に移植する再建手術も同時に行ったのだ。
入院中、依田さんはひとりだった。
パジャマや下着は病院内にあるコインランドリーで洗った。
退院日、友人に送ってもらって家に着いた。が、何やら父の様子がおかしい。
聞けば、前日に自転車で転倒して頭を打ったのだという。
救急車を呼んで、国立病院機構災害医療センターに向かった。
父はそのまま入院。頭を打ったため、名前や自分の誕生日も言えないほど機能が低下している。
乳がんの手術を終えて退院したばかりの依田さんは、病院でグッタリしてしまった。
一か月後、父が退院する頃、勤務先から連絡が入る。
復職できるのであれば、早めにお願いしたいということだった。
契約社員という立場もあり、3カ月も休職が続くと悩ましいというのだ。
慣れ親しんだ会社で、同僚たちのことも好きだったから、すぐに復職した。
復職と抗がん剤治療
職場復帰後まもなく、乳がん治療の抗がん剤治療のAC療法が始まった。
3週間を1クールとし、4クール行うことに。
依田さんは金曜日に病院に通うことにした。そうすれば、週末は体調が悪くても会社を休まなくてすむ。
抗がん剤治療を始めると髪が抜けたので、通勤にはウィッグ、職場ではニット帽をかぶってがんばった。
AC療法の後は、次の抗がん剤パクリタキセルも行った。
すべての治療をやり終えた時、孝之さんの死から2年経っていた。
彼は依田さんにとって、大きな存在だった。
だから、「今は生きがいになるような何かがない。いつかまた見つかったらよいと思うけれど」というのが依田さんの心境だ。
それからしばらくして、依田さんは契約社員から正社員に昇進した。
入社して28年近くが経ち、ついになれた正社員のポジションだった。
頑張ってきた依田さんへの天からのプレゼントのようで、素直に嬉しかった。
最近は、ボクササイズやヨガ、ピラティスを楽しんでいる。
体を動かしているときは、「自分が生きている」と実感するからだ。
そういう瞬間も少しずつ持てるようになった。
依田さんは強く生きている。
依田福恵さんの詳しい「がん闘病記」、及び「インタビュー記事」はウェブサイト『ミリオンズライフ』に掲載されています。ぜひ、読んでみてください。