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体験談のあらすじ
左胸だけ張っていることに気づいたことがきっかけだったが、災害ボランティアなどを行っているうちに発見が遅れ、病院で診断された時には既にステージ3の炎症性左乳管がんだった原田祐子さん。がんになったショックももちろんあるものの、ただ言われる治療をするのではなく、自分で調べて納得のいく治療を貫いた。結果、がんは予想以上に小さくなり、手術を避けることができた。原田さんは以前よりもたくましく素敵な人に成長した。
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本編
しこりのない乳がん
愛知県みよし市在住の原田祐子さん(取材時51歳/2016年当時49歳)は、父親の紹介で自動車部品の事業を営む夫と結婚し、1男1女に恵まれた。
夫が立ち上げた、自動車部品の設計をする事業も順調に進み、100人以上の従業員を抱える株式会社まで発展し、幸せな家庭を築いていた。
2016年になると、長男も高校3年生となり、子育ても一段落してきた。
そんなある日、原田さんは、左胸が張っていることに気づく。
以前にも、生理前になると片胸が腫れることがあったため、一旦様子を見ることにしたが、夫はひどく心配していた。
夫の心配が的中したのか、日が経つにつれ左胸だけ固くなり、赤みを帯びるようになった。
不安に思い、病院に行こうと思った直後、知人が熊本地震にあい、支援をするため忙しくなった。
いつの間にか、左胸のことは後回しになっていた。
支援活動を終えて帰宅したとき、生理後も左胸の腫れがひいてないことに気づく。
不安になりインターネットで調べると、ばい菌が入ると炎症を起こす、「乳腺炎」の症状が当てはまる。
ただ、ばい菌による炎症だとは、どうしても思えなかった。
「がん」という言葉が頭をよぎったが、原田さんは毎年乳がん検診を受けており、今まで乳がんの可能性は指摘されなかった。
乳腺炎の可能性が高いとは思うが、不安は拭えず、4月26日に豊田厚生病院の外科を受診した。
触診、血液検査、CT画像検査をすると、乳腺炎の可能性が高いが、念のため細胞診(生検)をするという。
生検の痛みに耐えながら、やっと原因が分かると胸をなでおろした。
ただ、乳がんの可能性を思うと不安は尽きなかった。
幸い左胸にしこりはない。
しこりがなくともがんの可能性はあるのだろうか。
がんのことで頭がいっぱいだったが、仕事で忙しい夫には相談できなかった。
悶々としながらネットで調べると「炎症性乳がん」という病名を見つけた。
詳しく調べると、発見時にはステージ3以上のことが多いと書かれている。
嘘でしょ……。
もしこのがんだったら、手遅れかもしれない。
原田さんの不安は深まるばかりだった。
悪夢の始まり
生検から2日後、追加の検査行われた。
詳しい検査の為、昼食を抜いてきてほしいと言われていた。
病院までの足取りは重かった。
担当医師からは「まだ、結果がはっきりと出ていないため何ともいえませんが、疑いはあります」と言われる。
ぼやかした言い方だったが、先日ネットで調べた病名が頭をよぎる。
「わかりました。次回は家族と一緒にきます」
夫を連れ、5月6日に検査結果を聞きに行った。
「炎症性左乳管がんです。ステージは3bです」
その途端、原田さんは頭が混乱した。
医師は、胸の構造の絵を描きだし、事細かに説明してくれた。
乳管が「がん化」していてリンパ節にも転移しており、がん組織が大きいため手術はできないという。
それを聞き、涙が止まらなかった。
同席した夫も言葉が出なかった。
非常に進行の速いがんのため、3日後から抗がん剤治療を受けることになった。
薬によりがん組織が小さくなれば外科手術も行える。
だが、このがんの5年生存率は50%。
「私は5年、生きられるのかな……」
原田さんは命と向き合うことになった。
そして始まった抗がん剤治療。
病院の外来で、血液検査を行ってから、点滴でハーセプチン、パージェタ、タキソテールを身体に入れた。
3週間を1クールとするもので、これを合計7クール行う。
まるで悪い夢を見ているようだった。
襲い掛かる副作用
抗がん剤の副作用も出始める。
口内炎、鼻血、下痢、関節の痛み、足の指のしびれ、……
どの症状も辛かったが、2週間後、洗髪中に髪がバサバサ抜け落ちた。
抜け落ちた髪を見ると、自分ががん患者になってしまった現実を突き付けられた。
原田さんは浴室で泣き続けた。
第2クールにはいると、急に発熱した。
病院を受診すると白血球の数値が落ち、抵抗力が弱いという。
髪が抜けるだけでなく、体も弱くなっていく。
理解はしていたが、抗がん剤の副作用が恐ろしかった。
この頃、外科手術ができるようになった時を想定し、転院先を探していた。
今までの担当医の専門が、炎症性乳がんではなかったからだ。
7月7日に名古屋市立大学病院への転院が決まり、第5クールから移ることになった。
12日に今までの病院でCT画像検査をすると、腫瘍が小さくなっていた。
治療効果が出ていることがうれしく、光が見えてきたようで安心した。
それを夫に知らせると、とても喜び、ようやく気持ちが落ち着いた。
8月3日から名古屋市立大学病院での治療が始まった。
投与する薬が変わり、パージェタ、ハーセプチン、ドセタキセルの3種類になる。
治療は順調だったが、副作用は相変わらずひどかった。
足がむくみ、靴が履けないだけでなく、肌にアレルギー症状が出てしまったため、化粧もできない。
少しでも症状を軽くしようと食事制限をし、体重は10キロも落ちた。
さまざまな副作用に苦しみながら、毎日の生活を淡々とこなし、9月14日に第7クールを終えた。
抗がん剤の効果と放射線治療
9月24日、CT画像検査を受けると10センチ以上あった腫瘍が2センチまで縮小し、手術ができる状態にまで回復していた。
“手術ができる”というのは、本来ならとても嬉しいはずの知らせだった。
今まで手術をするために、抗がん剤治療を受けてきたわけだし。
だけど、「これほど小さくなったのなら手術以外で治したい」と、原田さんは考えるようになっていた。
調べていくと、神戸で放射線治療を行っている医療機関があった。
原田さんは放射線治療に興味を持ち、そのことを担当医に伝えると、手術が治療の第一選択だと言われ、口論になってしまった。
抗がん剤治療は、第8クールまでやり終えたが、原田さんは主治医に、一旦放射線治療を受けるが、その後はハーセプチンのみの抗がん剤治療を受けたいと申し出て、承諾された。
10月19日に抗がん剤治療後の評価を診るため、MRIとPET―CT検査を受けた。
なんと、腫瘍の影はすべて消えていた。
抗がん剤の素晴らしい効果だった。
今までの苦労がすべて報われた。
原田さんは完治を目指し、11月11日に入院した。
放射線治療を受け、12月6日に退院すると、容体はかなり落ち着いた。
抗がん剤治療をしていないだけで、世界が変わったように感じる。
食事制限も必要ないため、食べる楽しみもできた。
一時はがんになってしまったことに対して悩んだが、家族や友人と話せるようになると考えこむこともなくなった。
心の整理がつき、以前よりもたくましい自分になることができた。
退院後、しばらく自宅で静養していたが、12月28日にハーセプチン単剤での抗がん剤治療を受け始めた。
今までの副作用を思うと気が進まない。
「最後の治療だ」
そんな思いでがんばった。
この治療を、2017年4月14日まで、合計6クール、18週間行った。
すべてをやり終えた時、何ともいえぬ解放感を感じた。
がんによって成長した“私”
乳がんは原田さんの人生の転機となった。
自らのがんを友人に伝えると、親身になってくれる友達は多かったが、逆に距離を置きだした人もいた。
一方、これまでさほど仲が良くなかった知人が、親近感を覚えたと、その後、仲良くなったケースもある。
すべての治療を終え、再発の不安がないかといったら嘘になる。
でも、そんなこと考えても仕方がない。
人と会うことで安心を得ることができ、不安を減らせる。
原田さんは多くの人と交流するようにし、自分の心の内面をコントロールすることができるようになった。
また、がん患者だけで行うヨガ教室を見つけた。
「乳がんヨガ」と呼ばれ、インストラクターの先生も参加者たちも全員が乳がん経験者。
安心でき、共感できる部分が多いため、とても居心地がいい。
自分の経験を活かしたくて、民間の団体ではあるが「がんピアサポート」の資格取得に挑戦した。
E-learningで全18回の講義を受けた後、インターネット上で認定試験を受けたが、残念ながら不合格。
まだまだ覚えることがあると次の受験のために猛勉強をしている。
今年のゴールデンウィークには、がんから2年の記念日がやって来る。
多くの試練を乗り越え、前よりもずっと素敵な人に成長した原田さんは、今日も楽しく生きている。
原田祐子さんの詳しい「がん闘病記」、及び「インタビュー記事」はウェブサイト『ミリオンズライフ』に掲載されています。ぜひ、読んでみてください。