乳がん(ステージ2)今は元気に働いています

この記事を読むのに必要な時間は約 9 分です。

体験談のあらすじ

41歳の時に婦人病で子宮を失い、その2年後に追い打ちをかけるように乳がんが見つかり、抗がん剤治療を受けることになった松下裕子さん。抗がん剤治療をしたことで、社会から切り離される孤独を感じることに。その後、乳房を温存する手術と術後の放射線治療によって完治し、がん体験を本にして出版した。復職も果たすことができ、今では前よりも充実した毎日を過ごしている。

本編

最初に失ったもの

神奈川県足柄郡在住の松下裕子さん(取材時50歳/発症時41歳)は、夫と暮らしながら、スーパーのパートをこなしていた。
働くことが大好きで、忙しくも充実した毎日を過ごしていたが、41歳の時、体に異変を感じるようになった。

体がだるく、今までは普通に登れた階段もすぐに息が切れるのだ。

実は20代のころに子宮筋腫が見つかり、松下さんは毎月辛い生理痛に悩まされていた。
今回もその関係かと思ったが、病院で手術の必要があると言われるのが嫌だった。
しかし、夏に血の塊が出るほどの出血があり、さすがに重たい腰を上げた。

詳しく調べると子宮筋腫のほか、子宮内膜症子宮腺筋症、3つの病気が見つかり、子宮を全摘する必要があるという。

全摘となると、もう子供を産むことができない。
41歳と年齢的に子供は厳しかったとしても、可能性はあったかもしれない。
夫や義理の母に合わせる顔がなかった。

子供が産めない自分が情けなく、夫に「離婚してほしい」と告げると、夫は「冗談じゃない」と離婚ではなく、二人で過ごすことを選んだ。
しかし、松下さんの心が晴れることはなかった。
むしろ、夫の愛情を感じるほどその罪悪感は胸に大きくのしかかる。

2008年11月26日、聖マリアンナ医科大学で子宮全摘の手術を受けた。
これが人生の大きな転機となった。

手術を受けてから2年間、松下さんの体調はすこぶるよくなる。それまであった生理痛がなくなったからだ。子宮を失った喪失感より、定期的にあった悩ましい痛みがなくなり、生活が楽しいから喜びのほうが大きかった。
体を動かせることを幸せだと感じたし、逆に今まで痛みが心を蝕んでいたことがわかった。
子宮を失った喪失感は時間が癒してくれた。

二度目の告知と死の影

その年の10月、松下さんは、右胸に3センチくらいのしこりを見つけた。
「乳がんかもしれない……」
一度そう思うと、笑えなくなってしまった。
お笑いを見ても何も感じない。

夫や近所のクリックにも詳しく調べた方がいいと勧められ、11月に国際医療福祉大学熱海病院、乳腺外科を受診した。
大きな病院で乳がんではないことを確認したかった。

だが、医師は触診でしこりに触れるとすぐに「間違いなくがんです」と告げた。

見ないふりをしていた現実をたたきつけられ、死が形を持って、松下さんの元に現れたのだ。
「先生、私は死ぬんでしょうか」
あまりにも恐ろしく涙を流し続けた。

「僕が助けてあげます」
松下さんの恐怖は医師の一言でほぐれていった。

それにしても、子宮だけでなく胸までなくなる情けなさ。
子宮を全摘した時以上の罪悪感と苦しみが、松下さんを襲った。

メールと電話で、夫に乳がんのことを伝えた。
金銭的な負担とまた心配させてしまうことがあまりにも辛い。

夫が帰宅すると「離婚してほしい」と2年前と同じことを告げた。
夫は切なそうな顔で松下さんを見る。
「そんなこと言うなよ、一緒にがんばろう。離婚なんて絶対にない。いつもそばにいるからさ」
2年前と変わらず、松下さんと一緒に生きることを選んでくれた。

2010年11月26日、医師に松下さんはトリプルネガティブ乳がんで、ステージ2Bであったことが告げられた。
幸い脳や骨に転移していなかったが、ホルモン剤が効かないので、抗がん剤治療の後手術を行うと言われる。

がんと社会と副作用

松下さんが戦うのはがんだけではなかった。
店長や同僚に抗がん剤を受けながら仕事をすることと伝えると、
「抗がん剤治療を受け手がんばって働くって、かつらをかぶって働くってこと? 抗がん剤で体力が落ちて今までと同じ仕事ができないと、他の人が穴埋めをしなければならないから迷惑なんだけど」と言われる。
あくまで治療に専念してほしいからだと説明されたが、信じられないほど冷たい言葉だった。
(がん患者は働いてはいけないのか……。)
仕事が大好きな松下さんは社会と切り離されたような孤独感を感じる。
一緒に来てくれた夫が何も言い返さないことも不満だった。

12月3日から通院でのFEC療法が始まった。
https://ganjoho.jp/public/cancer/breast/treatment.html
3週間に1回病院の外来で、抗がん剤の点滴を投与し、休薬期間をとり、3週目に白血球数を上げる「グラン」を投与する。
これを1クールとし、合計4クール行う。

抗がん剤を投与すると、患部がチリチリと痛み、薬が効いていることを実感した。

しかし、想像以上の副作用が松下さんを襲った。

吐き気が止まらず、味覚障害に陥った。
水が苦いのだ。
食欲もわかず、体もだるくなるばかり。

第1クール目の後半から脱毛が始まり、一日で髪の毛が一目でわかるほど減った。
しばらくすると、まるで落ち武者のような頭になり、自分がみじめで仕方がない。
それでも、抗がん剤治療は続く。

ただ、その甲斐あって、2クールを終えると腫瘍の大きさが3センチから1.8センチになった。

早い段階で効果が出たのが嬉しく、医師を初めとするスタッフが自分の命を助けようと力を貸してくれることが幸せだと感じるようになってきた。
心も安定してきたのだ。

抗がん剤治療は、2011年2月25日に終了し、次の抗がん剤(パクリタキセル)治療に移る。https://ganjoho.jp/public/dia_tre/treatment/drug_therapy/anticancer_agents/data/paclitaxel01.html

週に一回点滴で投与され、合計12回行われた。
副作用としては味覚障害と手足のしびれ、そして全身にむくみが出た。

家では、副作用のせいで何もできない。
愛犬と一緒に過ごし、ピアノを弾くことだけが松下さんの心を癒しだった。

3月25日、治療効果を確認するため生検をすると、腫瘍がなくなっていた。
髪の毛が無く身体中むくんでいる状態だったが、完治の兆しが見えた気がして治療への意欲がわいてきた。

5月13日、最後のパクリタキセル投与が終了し、医師に乳房の摘出か温存のため部分摘出にするか尋ねられた。

悩んだが、夫や実家の母と話し合い、再発のリスクはあるが、乳房を温存することにした。

6月3日、手術は無事に終わった。
病理検査では悪性腫瘍は見つからなかったという。
これで死に怯える生活が終わる。
胸をなでおろした。
これまで献身的にサポートしてくれた医師たちのおかげだと心から感謝した。

リハビリを行い、6月13日に退院。

7月13日から放射線治療を行うため、小田原市立病院に通った。
平日の5日間、放射線を当てる。これを5週間行う。

8月17日に無事放射線治療を終え、日常に戻ることができる。
普通の日々を過ごせることが嬉しくてたまらなかった。

再発の不安と充実感

ところが、治療は終了したものの、松下さんは再発の不安に悩まされることになる。
体はよくなっているのに、心の状態は悪化するばかりだった。
夜眠れなくなり、抗不安薬・睡眠導入剤を服用する機会が増えた。

そんな松下さんを心配し、夫が「不安な気持ちを文章にしてみてはどうか」とアドバイスをくれた。

何かに挑戦することで、不安も軽くなるかもしれない。
松下さんは原稿を書き始めた。

不安や思いを何枚も何枚も積み重ねたら、100ページにも及んだ。
徐々に、プロの目の意見を聞きたくなり、2012年1月、文芸社に原稿をみてもらった。

担当者はもっと詳しく書き進めてほしいという。

夢中になった松下さんは3月中にすべてを書き上げた。
すると4月に出版社から「本に出版しましょう」と連絡がきた。
自費出版になるが、書店に本が並ぶことになったのだ。
まるで夢のようで、すごく幸せに感じた。

2012年11月15日。
明るい光のさすほうへ 乳ガンが教えてくれたこと』(文芸社)が出版され、全国の書店に並んだ。

出版を契機に、湯河原町での講演会、FM熱海でのラジオ番組出演など、松下さんの活躍の場が広がる。

嬉しいことがある一方で、復職には苦労していた。
治療を受けながら働くことは叶わず、治療を終えても復帰できない。
このまま退職してほしいという雰囲気が漂った。

そんな中、休職に入るときに相談した労働局の計らいで団体交渉が行われた。
「私は、(がんになったけど)何も悪いことをしていないんだから、辞めさせられる理由はない」
その事実を全面に出し、2年半交渉を続け、とうとう復職を果たしたのだ。

感無量で表現し難い幸せを感じた
また社会に戻れるという歓び。
自分でつかみ取った“人生の再スタート”だった。

私生活では、本の出版を契機にブログを始め、読者と交流をとるようになり、時には実際に会うこともあった。
多くの人と交流を持て、生活そのものが、がん発病前よりも充実している。

病気で失ったものもあるし、つらいこともあった。
でも今、明らかに得たものの方が大きく、自分の財産となっている。

松下さんは、今日も制服姿で元気にスーパー勤務をしている。

松下裕子さんの詳しい「がん闘病記」、及び「インタビュー記事」はウェブサイト『ミリオンズライフ』に掲載されています。ぜひ、読んでみてください。

plus
大久保 淳一(取材・編集担当)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイトの編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト「5years.org」を運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。

関連する投稿

検索語を上に入力し、 Enter キーを押して検索します。キャンセルするには ESC を押してください。

トップに戻る