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体験談のあらすじ
主婦、母、娘として親の世話、そして仕事……。40代の女性たちの役割は多いが、八尾智子さんもそんな一人だった。若い頃から慢性的に何らかの体調不良を抱えていたことから、自らの体調の変化に注意を払うこともなく、日々の業務を慌ただしくこなしていた。
しかし、とうとう異変が現れる。病院で度重なる検査をしても、病名は明らかにならないまま、体調だけはどんどん悪化していくのだった。
5yearsプロフィール: https://5years.org/users/profile/727
本編
食欲不振とひどい下痢
大阪府枚方市在住の八尾智子さん(取材時50歳/2014年当時47歳)は、生命保険会社の事務のパートをする主婦。
大学生と中学生の子供の母親でもある。
仕事と家庭の両立をするため、毎日慌ただしい生活を送っていた。
ところが、2014年の秋から体調に変化が見られるようになった。
食欲がなく、胃もたれがするのだ。
八尾さんは若い頃から、慢性的に肩こりや頭痛、眼精疲労など、どこか体調が万全でなかったので、食欲がないのも「いつものことかな」くらいに考えていた。
2015年1月、八尾さんの78歳の父が倒れた。
誤嚥性肺炎から間質性肺炎になり、大阪市内の病院に入院することになったのだ。
母は軽度の認知症であるため、八尾さんの生活はさらに慌ただしくなっていった。
ところが、1月末になっても、八尾さんの食欲不振と体調不良は一向に改善されなかった。体重もピーク時から6キロ以上減った。
「痩せてラッキー」と思う反面、家族からは病院へ行くことを勧められるようになった。
2月中旬に近所のクリニックに行ったが、そこではインフルエンザ検査をされ、「陰性」の結果をもらって帰ってきただけで、他には何も言われなかった。
2月下旬、下痢がひどくなり、仕事中でも1時間おきにトイレのために席を立たなければならないほどに。
さすがにこれはまずいと胃腸科専門のクリニックを訪れた。
クリニックでは医師から、「血液検査の結果、炎症反応が出ています。大きな病院で診てもらってください」と言われる。
3月16日に、紹介先の枚方公済病院の消化器内科を受診した。
CT画像検査と血液検査が行われ、胃カメラと大腸内視鏡検査も行った。
CTの結果画像のプリントをもらって自宅で落ち着いてみたところ、画像診断医のコメントが書かれていた。
「悪性腫瘍の疑い、胸水あり、リンパの腫れあり」
ぞっとした。
プリントを渡してくれた消化器内科の医師は何も言っていなかった。
「悪性腫瘍って、がんってこと?」
私、がんなの?
仲の良いママ友に相談したら、「すぐに大きな病院に行きな!」とすごい剣幕で言われ、翌日、京都大学医学部附属病院へ行くことに。
その病院は、娘が先天性の病気で治療を受けている病院だったので、紹介状も予約もなかったが、とにかく行ってみようと判断した。
夫は有給休暇を取って病院に付き添ってくれるといってくれた。
翌日。
待合室は予約患者であふれかえっていた。
受付の女性は、「受診までどれくらいかかるかわからないし、もしかしたら、今日中に受診できないかもしれない」という。
「それでもいいから」とお願いし、待った。
グッタリした体調で3時間以上待った後、ようやく八尾さんの名前が呼ばれた。
CT画像検査のプリントを渡し、血液検査、腹部超音波検査を行った後、医師から、
「みぞおちのリンパが腫れているので、消化器ではなく、悪性リンパ腫の可能性があります。血液内科を受診してください」と言われた。
翌日も夫の運転する車で大阪から京都まで行った。
八尾さんの体力はとても弱っていて、息苦しくて1人では移動は無理だった。
血液内科を受診する。
骨髄に針を刺して骨髄液を抜き取る検査を受けた。
診察した女医は「50%の確率で悪性リンパ腫だと思う」という。
ただ、確信できるまで、胃の内視鏡検査、大腸内視鏡検査、CT画像検査、MRI、PET検査など、さまざまな検査が続く。
身体はつらいのに、治療が始まらないことが、八尾さんにはもどかしかった。
決まらない病名
3月23日、職場の上司に体調について打ち明け、休職を願い出た。
血液内科の女医から、「骨髄穿刺では悪い結果は出ませんでした。ただ、PET検査で卵巣が腫れていることがわかりました。婦人科の病気が疑われるので、そちらを受診してください」と言われる。
八尾さんは愕然とした。
「また診療科と担当医が変わるのか……」
とにかく早く治療してほしいのに、いまだに何の病気なのかもわからず、一向に何も始まらない。
4月1日
京都大学医学部附属病院、婦人科の医師から電話が入った。
検査入院をしないかという連絡だった。
夫は「家のことなら俺がやるから大丈夫」と言ってくれた。
検査入院は2日後に決まった。
4月3日
数日の検査入院かと思っていたが、予想より長くなりそうでがっかりする。
依然として食欲はなく、この頃は外見もげっそりしていた。
連日、いろんな検査が行われるのだが、胸水が溜まり、みぞおちのあたりが腫れていて、呼吸をするのもつらく息がすぐにあがるってしまう。
一通りの検査をした後、入院病棟の若い女医が検査結果を報告してくれた。
「まだ、がんがどこの原発なのかわからないのですが、MRIの画像を見ると、卵巣がんか卵管がん、あるいは腹膜がんのどれかが疑われます」という。
八尾さんは、落胆してしまった。
すでにCTの画像プリントに「悪性腫瘍の疑い」と書かれてから20日以上が経っていた。
(こんなに検査をしたのに、まだ病名が決まらないのか……)
そんな八尾さんを見て、若い女医は「緩和ケアをしましょうか?」と聞く。
本当に死ぬんじゃないか、と思って怖くなり、即断わった。
その夜、八尾さんは2人の医師に呼ばれた。「どうも腹膜がんの疑いが強いです。ステージは最も進んでいるステージ4Bです。組織をとって病理検査をしたいので、試験腹腔鏡手術を行いましょう」という。
手術は4月17日に決まった。
手術前日、胸水を抜く処置が行われた。血液と一緒に相当な量の胸水が出た。
翌日の試験腹腔鏡手術は、卵巣、卵管、腹膜の組織を外科的に取り、病理検査を行うものなのだが、手術は5時間以上に及んだ。
結果は、事前に伝えられたように、ステージ4Bの腹膜がんだった。
50:50
次の日から、抗がん剤治療(TC療法)が行われることになった。カルボプラチンとパクリタキセルを点滴で投与するものだ。
最初にカルボプラチンとパクリタキセルを、8日目と15日目にカルボプラチンを投与する、1クール21日間の全身化学療法だ。
最初の頃は検査手術による体力低下もあり、酸素マスクをしながら受けていた。
テレビドラマなどで抗がん剤治療の場面を見ていると、とても恐ろしくて八尾さんは「自分には無理」と思っていたが、実際にそうなってみると、そんなことは言っていられない。
「下の娘が二十歳になるまで、生きなくちゃ」
主治医からは、八尾さんと同じタイプのがんの場合、国立がん研究センターによる5年生存率は30%で、京都大学医学部附属病院では50%だと説明を受けた。
「50%に賭けましょう。頑張りましょう」と繰り返し励まされた。
2クールのTC療法を入院治療で行った後、第3クールからは通院治療とし、カルボプラチンとパクリタキセルの2種類の薬を入れる8日目と15日目は、2泊3日の入院治療となった。
しかし、家に帰った八尾さんは、吐き気、倦怠感などの副作用に苦しんでいたので、家事もできず横になってばかりだったから、「入院していた方がいいのかも」と落ち込むようになった。
夫はレシピサイトの「クックパッド」をみながら、料理を作れるようになっていた。
あまりにも意外で驚くと同時に、自分の居場所がなく、かえって家族の重荷になっているように感じて辛くなってしまった。
夫も娘たちも優しくしてくれるのだが、患者の気持ちは同じ患者にしかわからない部分もあった。
八尾さんは、入院中に仲良くなった患者仲間の良江さんのことを思った。
良江さんは、明るく楽しい人でみんなの人気者だった。
八尾さんとは、お互いメールで連絡して励まし合っていた。
やっと朗報が!
7月に医師と面談したとき、思いもがけないことを言われた。
「抗がん剤がとてもよく効いています。このままだと手術の必要はないかもしれません」
抗がん剤はよく効いて、腫瘍マーカーCA125(基準値35U/mL以下)は、3065(3月26日)→478(5月11日)→94(6月1日)と着実に下がっていた。
8月には、短期留学でノルウェーに行く長女を関西国際空港に見送りに行った。
長女は八尾さんの病気を心配して留学をあきらめることも考えていたが、八尾さんが「あなたの人生なんだから行きなさい」と背中を押したのだ。
9月に入って、CT画像検査、MRI、PET検査をおこなったところ、すべての画像診断でがんは消えていた。
9月30日、八尾さんは合計6クールのTC療法を終えた。
そして、医師から寛解の報告を受けた。
こんなことってあるのかと驚いた。
この1年、いろんなことがあった。
精神的に追い込まれた時期もあったが、今は解放されてすがすがしかった。
八尾智子さんの詳しい「がん闘病記」、及び「インタビュー記事」はウェブサイト『ミリオンズライフ』に掲載されています。ぜひ、読んでみてください。