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体験談のあらすじ
フリーのテレビ番組のディレクターとして活躍していた長谷川一男さんは、二人の子どもにも恵まれて、仕事も脂ののっていたときにステージ4の肺がんが見つかった。突然、絶望の底に落とされるが、父親としてまだまだ生きなければという強い意志で、数々の抗がん剤治療や手術を積極的に受けた。そして、告知から5年経って、肺がん患者のための患者会を立ち上げた。
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本編
「がんの可能性が高い」
神奈川県横浜市在住の長谷川一男さん(取材時47歳/2010当時39歳)は、父親が靴販売商人、母親は美容師の家庭で、3人兄弟の長男として育った。
下に二人の妹がいる。
2010年当時、フリーのテレビ番組ディレクターとして活躍していた長谷川さんは、『報道ステーション』(テレビ朝日)、『ワンステップ』(TBS)など、大手民放テレビ局のレギュラー番組の担当をし、活躍していた。
この年は、2人目の子どもを授かったばかりで、父親としての幸せも味わっている時だった。
2月、仕事をしていて、カラ咳が続くことに気づく。
風邪かなと思い、市販薬を服用しながら仕事をこなしていたが、一向に止まらない。
数日後、自宅の鏡に映る自分の姿をみて、異変を感じる。
右の首から肩にかけて盛り上がっているのをみつけたのだ。
早速、クリニックを訪れた。
医師は「気胸かもしれないから、大きな病院で診てもらったほうがいい」という。
そこで、横浜市みなと赤十字病院へ行った。
しかし、担当医から「これは気胸ではないようだから、CTを撮って詳しく調べる必要がある」と言われる。
長谷川さんは、なんとなく嫌な予感がした。
「ひょっとしたら、これはがんではないのか?」という思いがよぎる。
CT画像検査の診断のため、診察室に入ると、男性医師は奥歯にものが挟まったような話し方をする。
思い切って、長谷川さんが「これ、肺がんにしか見えないのですが」と医師に聞くと、医師は「はい、その可能性が高いです」と返答した。
この日、長谷川さんはそのまま入院することになった。
一週間後、主治医がはっきりと肺がんだったことを伝えてくれた。
情報収集をしてくれた妻によると、分子標的薬「イレッサ」が効果的で予後も期待できるが、イレッサが効くのは遺伝子の変異(EGFR変異)がある場合のみだという。
しかし、長谷川さんのがんはステージ4の肺腺がんで、EGFR異変はないことがわかった。となると、点滴による抗がん剤治療になる。
この時、隣に座っていた奥さんが思わず、主治医に聞く。
「(夫の余命は)あと、どれくらいでしょうか?」
一瞬の間を置き、主治医は「10ヶ月くらいだと思います」と答えた。
“余命10ヶ月”宣告
まったく心の準備もない状態での、突然の余命宣告だった。
その夜、長谷川さんは妻には病院に泊まってくれるように頼んだ。
そして、携帯電話で実家の母親に報告した。
「こめんね。ガンになっちゃった……」
夫(長谷川さんの父親)を肺がんで亡くしたばかりだったのに、長男も肺腺がんだと知らせるのは辛かった。
長谷川さんは、たばこを一切吸わない。にもかかわらず、この病気が発症した。
やるせない思いが長谷川さんを襲った。
そして、抗がん剤治療(アリムタ+シスプラチン)が始まった。
腕からの点滴で入れる全身化学療法で、3週間を1クールとし、その後1週間の回復期を設け、2クール行われた。
その後、抗がん剤の組み合わせをアリムタ+カルボプラチンに替え、5クールの治療が続けられた。
すると、胸にあったゴルフボールくらいの大きさの腫瘍の影がどんどん小さくなり、薄い瘢痕のようになっていった。
抗がん剤治療が効いたようだった。
医師からも「こんなに効果があるのは20人に1人じゃないでしょうか」と評され、嬉しくなった。
しかし、セカンドオピニオンを求めて、意見を聞くと、「この病気は治るものではないので、1日1日を大切に生きてください」と言われる。
「(これは)聞きたいことではないのに……」
長谷川さんは、“セカンドオピニオンの旅”を続けていた。
自分の役目とは
ある時、とある医療機関の医師からこう言われた。
「人には役目があります。長谷川さんには幼いお子さんたちがいて、子ども達を育てるという役目があります。それを全うしなくてはなりません。この病気は、治りはしませんが、まったく可能性がないわけでもありません」
すごく心に響いた。
それまで「あきらめた方がいい」と言われ続けていたが、初めて「あきらめなくてもいいんだよ」と言われたようだった。
それ以来、長谷川さんの治療への向き合い方は積極的になっていった。
秋から3ヶ月、別の医療機関で、陽子線治療を受け、 抗がん剤TS-1の服用を始めた。
同時に、心の整理の仕方を習得するようにもなっていた。
以前は、死へ引き込まれるように感じ、常に怯えて恐れていたが、今では、わからないことがあれば、納得するまで徹底的に調べて、その上で治療を受けることができれば、たとえ結果が思わしくなくても、自分は受け入れられると考えられるようになっていた。
陽子線治療は12月に終え、翌年(2011年)の2月、次の抗がん剤治療(ドセタキセル+シスプラチン)を受けていた。3週間を1クールとして、回復期(1週間)を設け、合計4クール。
しかし、この病気は簡単ではなかった。
今度は原発である右肺に白い影が映った。
めげることなく、次の選択肢として、重粒子線治療を受けることにした。
長谷川さんは、自分は“逃げ馬”でいるつもりだった。
すでに余命10ヶ月は超えて、あれから1年半を生きていた。
3週間の重粒子線治療を終えると、次は抗がん剤(アバスチン+ナベルビン)治療を選択した。
この治療は2011年11月~2012年3月まで続いた。
薬が効かなくなると、次の薬を試す。その繰り返しだが、長谷川さんは、強い気持ちで臨んでいた。
思い切った手術
がん告知から3年目、長谷川さんは重大決意をした。
右肺をすべて摘出する手術を受けたいと、自ら申し出たのだ。
2012年4月。右肺の摘出をする手術は無事に終わった。
しかし、合併症が起こり、右胸に穴をあけ、定期的にクリーニングをするための開窓手術が行われた。
積極的に治療を受けることに迷いはないし、合併症などのリスクが伴うことを承知して受けた手術だったが、こうなったことは悔しかった。
それから2年半が経ち、2015年。
余命宣告から5年が経っていた。
がん患者の世界には「5年生存率」という嫌な言葉があるが、そういう意味では、その節目を無事に迎えることができた。
ところが、2月に再び複数の転移が見つかる。
今度は、抗がん剤(タルセバ+TS-1+アバスチン)治療が始まった。
患者会「ワンステップ」を立ち上げる
そして2016年の抗がん剤治療終了から、今、2年が経っているが、今は何も治療を受けていない。
定期的な画像診断検査は受けているが、腫瘍の影は大きくなっていない。
余命10ヶ月と言われてから、すでに8年間が過ぎた。
振り返ると、すべてがトレードオフの8年間だった。
肉を切らせて骨を断つ。
生き延びるために、必ず何かを差し出してきた。
長谷川さんは、2年前に「NPO法人肺がん患者の会ワンステップ」をたちあげた。
「ワンステップは」かつてTVディレクターだったときに作った番組名でもある。
肺腺がん発症当時、幼かった子どもたちは、今、高2と中3になっている。
父親として、夫として、ワンステップ代表として、男として、息子として、人として、多彩な顔と役割がある長谷川さんは、毎日を大切に過ごしている。
そして、がん宣告から9年目の今を力強く生きている。
長谷川一男さんの詳しい「がん闘病記」、及び「インタビュー記事」はウェブサイト『ミリオンズライフ』に掲載されています。ぜひ、読んでみてください。