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体験談のあらすじ
大阪府豊中市在住の小西麻子さんは、妻であり、二人の娘の母であり、システムエンジニアとしてのキャリアもある、パワフルな女性だった。三女の妊娠中に現れた鼻水と発熱をきっかけに、甲状腺がん、肺への転移を経験。次々と行われる手術や治療を、持ち前の明るさと忍耐強さで乗り越えた。
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本編
妊娠中に見つかった甲状腺異常
2014年大阪府豊中市在住の小西麻子さん(取材時36歳、2014年当時33歳)は、情報システム会社のシステムエンジニアとして働く2児のママだった。当時、3人目を妊娠中で、7カ月になるお腹はふっくらとしはじめていた。
定期的に受けていた健康診断でも、いつも通り特に問題はなく、順調だと思っていたある日、ひどい鼻水と38度の熱が出た。近所の耳鼻科で「副鼻腔炎」と診断されたが、妊娠中のため、処方されたのは、弱い抗生剤だった。
ところが、処方された抗生剤を服用しても一向に改善しない。再度診てもらうと首の右側に腫れが見つかった。甲状腺が腫れていて、症状はこれが原因かもしれないといわれたが、耳鼻科で腫瘍マーカーのひとつである甲状腺機能検査(FT4)で測定した結果、甲状腺機能への異常はみられなかった。
しかし、担当医の「さらに詳しく調べたい」という要望により、甲状腺の組織をとる病理検査と超音波検査を受けることに。
不安になった小西さんはインターネットで情報検索を始めた。
悪性腫瘍の可能性はほとんどないようだとホッとした。
ただ、1cm以下は経過観察とあったが、小西さんの場合、腫れが3cmくらいだったのが気になった。
首に針を刺して組織を取る病理検査は、とても恐ろしいものだった。
顔に近いところで、麻酔もせずに針をぐりぐりと刺されるのだ。
腫瘍マーカー「サイログロブリン」は1000ng/ml以上だった。ただ、「良性でも上がるので、これだけでは悪性とは言えない」と言われた。超音波検査でも、がんという言葉は出なかった。総合的に判断して「腫瘤」(こぶ)の可能性が高いだろうということだった。
9月初旬。小西さんのお腹は一層大きくなり臨月に入っていた。
6月の副鼻腔炎から始まり、検査だらけの2ヵ月半だった。9月5日、詳しく調べるため大阪大学医学部附属病院を受診したが、出産を間近に控えているため、今すぐ始められる治療はないと告げられれた。
だが、今は臨月にも入っていることだし、無事に赤ちゃんを産むことが一番だと考え、自分の治療は後回しにすることにした。
9月29日、予定日を過ぎて3人目の元気な女の子が生まれた。
10月に入り、小西さん自身の治療が始まった。
10月中旬の検査で、サイログロブリンが1933ng/mlという高い値が出ており、首の腫れも前回より大きくなっていた。
再び首の組織を取って検査した結果、患部を手術で取ることになった。
手術は2015年1月23日に行われ、その頃には首の腫れものはピンポン大まで大きくなっていた。
小西さんは良性だと信じており、万が一、悪性だったとしても命にかかわるものではない。そんな風に楽天的に考えていた。
良性だと思っていたのに
2015年1月23日。手術は無事に終わり、切除した組織について「これだけ綺麗なら良性でしょう」と言われた。
2月下旬に切除した組織の病理検査結果を聞くために病院に行った。
「良性でした」と言われ、安心するために行ったはずだったが、取ったものの中にがん細胞が見つかったという主治医の言葉に息をのんだ。
転移があるかもしれないという。
残りの甲状腺も取ることとなった。
甲状腺の全摘の手術は、4月20日に行われることとなった。
この日、帰宅して家族にがんのことを伝えた。
「なっちゃったものは仕方がないし、面倒だけど甲状腺の薬を飲み続けていけば普通に生きていける」
そんな風に心を整理した。
持ち前の明るい性格がなす業なのか、小西さんは、くよくよしたり、考えても仕方ないことを考えて時間を止めてしまうようなことがない。
事実、手術入院の前日まで、ご主人と一緒の趣味のフットサルに興じていたほどだった。
たて続く手術
2015年4月20日、甲状腺全摘手術。
3時間半かかった手術も無事に成功した。
ところが退院間近のある日、医師から肺に影があることを告げられた。
甲状腺がんの転移の可能性があるという。
ショックだった。
でも、次に進まなくてはと呼吸器外科に予約を取った。
6月初旬CTレントゲン検査があり、がんの転移のため手術を受けることとなった。
胸腔鏡で患部をつまんで取るだけなので、手術自体は1時間程で終わるとのこと。
昨年6月の副鼻腔炎から始まり、すでに1年近くが経っていた。
流れに流されてここまで引っ張られて来た感じがする。
「いつまで続くのだろう」という不安がわくが、次の瞬間、「ここでしっかりと病気を治さなくちゃいけない。3人の娘たちが、将来、普通に日常生活が送れるようになるためにも、私は元気でい続けなくてはならない」と思い直していた。
家族は何よりも大切な存在だった。
2015年7月29日、胸腔鏡による左肺の切除手術が行われた。
身体的な負担はそれほどなく元気だったが、退院は8月のお盆前になった。
そして、10月の終わりに、右肺切除の手術。
4度目の手術だった。
ともかく目の前のハードルを1つ1つ乗り越えていくのに必死だった。
たこ焼きも食べられへんの?
12月に入り、会社に復職する。
上司や会社は長女の出産の時から理解があり、それは病気になってからも変わっていなかった。有難いことだった。
一方、甲状腺の治療は新たな段階に入っていた。
放射性ヨウ素内用療法という、治療をすることに決まった。放射性ヨウ素内用療法は、患者が放射性ヨウ素を服用すると、がん細胞が放射性ヨウ素を取り込み、結果がん細胞が破壊されるという原理だ。
具体的にはまずは「チラーヂン(ホルモン剤)」を日常的に服用し不足している甲状腺ホルモン剤を補い、「放射性ヨウ素内用療法」開始の4週間前から「チロナミン」に切り替える。2週間前になったら「チロナミン」の服用を止め、食事は「ヨウ素制限食(*1)」にし、体内の残存ヨウ素を極限まで下げ、放射線を放出するヨウ素のカプセルを隔離病室で服用する治療だ。
(*1)ヨウ素が含まれている食事、例えば「海藻類」「ヨード強化卵」「昆布だし」などが含まれている食事は一切禁止して制限するもの。
主治医から、「たこ焼きもお好み焼きも禁止です」と言われ、「たこ焼きも食べれんて、大阪人としてええんか…?」
関西人らしく、小西さんはそう笑った。
この放射性ヨウ素内用療法は、準備期間から身体がだるくなるなど、身体的にもつらい治療だが、何より辛いのは精神面だ。
というのも、放射性物質を体内に取り込むため、周囲の人が被ばくしないよう、患者は隔離された病室に閉じこめられる。“隔離病室”にいる間は、まるでサスペンス映画の囚人のように管理され、人との接触が断たれる。
食事も壁の向こうを介して配給され、小窓に置かれた食事トレイを届けてくれた人が去った後に受け取る。医師との会話も壁を挟んで行うという徹底したものだった。
家族のためにも乗り越えていく
もちろん、家族の見舞いも許されない。
唯一の楽しみは、スマホのテレビ電話機能で3人の娘たちと話せる時間だった。
入院自体は3~4日だが、退院後もさらに2週間ほど子供たちとの接触を禁じられる。
娘たちが小西さんの身体を通じて被ばくするのを防ぐためだ。
この間、1人暮らしをしている妹の家にやっかいになった。
「ママは病気だから、ちゃんと治療しなくちゃいけないんだ」
子ども達は幼いながらにそう理解しようとしてくれたが、子どもたちにとって、ママがいないさみしさを考えると辛かった。
この時、三女は、わずか1歳。三女が生まれてからというもの、入院、手術、治療の連続だった。
ごめんね……。
でもこれを乗り越えていかないと終わりが見えてこない。
だから我慢する。
家族のため、そして自分のためと、必死にこらえてすべてを乗り越えていった。
治療の後、シンチグラフィー検査で画像を確認した。
破壊された甲状腺がんの跡が黒く映し出されており、これがなくなるまで治療は続く。
患者によっては10年以上のケースもあるらしい。
治療は年に1回程度だが、治療準備期間を含め、体調が悪くなり、だるくなることがある。
人と会えない3週間は仕事に穴をあけてしまうし、何より幼い3人の我が子たちに会えないのは本当につらい。
2016年11月14日、2度目の放射性ヨウ素内療法が行われた。
再び家族と引き離され隔離病室での治療が行われた。
それから、1ヵ月後――。
最高のニュースが小西さんのもとに届く。
画像検査の結果、がん細胞の跡らしきものは何も映らなかったというのだ。
これで放射線ヨウ素内療法は終わり、今後は経過観察に移るという報告だった。
長かったがん治療が終わった。
ママの忍耐力とねばりが病気に勝った。
あの大変だった状況から脱して、今はかけがえのない日常を取り戻しつつある。
子育て、家事、仕事、フットサル……、何もかもが楽しい。
小西麻子さんの詳しい「がん闘病記」、及び「インタビュー記事」はウェブサイト『ミリオンズライフ』に掲載されています。ぜひ、読んでみてください。