悪性リンパ腫 25歳でガンを乗り越えて

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体験談のあらすじ

保育園で栄養士の仕事をしていたが、目の不調から自身が悪性リンパ腫であることを知った小林円香さん。抗がん剤治療を行うことで、25歳の若さで不妊になる可能性があると知った。抗がん剤治療を終えたものの、再発の恐怖のため、一時は過呼吸症候群に陥ったり、精神科に入院したこともあった。友人や家族の助けに励まされ、元の生活に戻ることができた、小林さんの闘病を紹介する。

本編

小さながんのサイン

2014年7月、東京都在住の小林円香(まどか)さん(取材当時28歳、2014年当時25歳)は保育園で栄養士の仕事をしていた。慣れない仕事に追われていたが、休日は趣味のアニメを見たりして充実した毎日を過ごしていた。

7月中旬頃、左眼が充血しているのに気付き、眼科に行った。
結膜炎と診断され、2カ月間薬を服用したものの、一向に改善は見られなかった。

9月29日。
左眼の下の頬のあたりに電気が通ったようなしびれを感じた。
翌日になってもしびれたままだった。

今年は強いストレスを感じ、体調を崩すことが多かった。
「幼いころに父が患った顔面神経痛に違いない」と思い、神経内科に受診した。

CT画像検査等の検査を受けた結果、鼻の左側に影があり、腫瘍の可能性があるという。そこで耳鼻科を受診することになった。

翌日、大学病院の耳鼻科で内視鏡とMRI検査を行ったが、「私はまだ25歳なんだから、病気なんかになるはずがない」と思っていた。

しかし、3日後、担当医から腫瘍があるので生検することを伝えられた。

腫瘍…、生検…。
ここまで話が大きくなるとは思わず、まるでSFファンタジーを見ているようだった。
その頃よく鼻血が出た。くしゃみをすると鼻血だけでなく、涙道を通じて眼からも血が出た。
さすがに不安は広がるばかりだった。

10月9日に生検の手術が行われた。
全身麻酔で鼻から内視鏡を入れて、5㎝ある腫瘍の4分の1を取った。
4日後に退院し、結果は一週間後に知らされることになった。

不妊の可能性とベストな選択

自宅に戻った円香さんは、希望を持ちたくてネットで色々調べたが、8割以上は嫌な情報ばかりだった。
そんな中、女性患者の場合、卵巣を凍結保存し、将来妊娠の可能性を残している人の話が頭に残った。

円香さんは、将来子供がほしいと思っていた。
子供が好きで保育園で働き出したのに、この若さで不妊になるなんて嫌だった。

生検の検査結果の日。

診察室の雰囲気はものものしかった。がんじゃないといいのにという期待は裏切られ、B型の悪性リンパ腫であることが告げられた。

ショックだった一方、不思議と気持ちは前向きだった。
「大好きなSFファンタジーの世界では、病気になった主人公が、がんばって乗り越えているじゃない!」
その思いが自分の心を支えていた。

大学病院の血液内科では、円香さんはバーキット型びまん性型の中間の可能性があり、早く抗がん剤治療を始めるよう勧められた。
それに対して、「まず卵巣を摘出して凍結したいです」と、初めて円香さんは自分の意思をはっきりと伝えた。
医師は、抗がん剤治療で必ずしも不妊になる訳ではないと説明したが、ここだけは譲れなかった。
未来のことは解らないが、今のベストを尽くしたい。そんな想いだった。

主治医を説得し、千葉県の別の大学病院で、卵巣の摘出手術を行った。

未来の自分に絶望

病理検査の結果は、「悪性リンパ腫、びまん性大細胞型B細胞リンパ腫」だった。
抗がん剤治療(R-CHOP療法)が始まった。

4種類の薬(リツキサン、エンドキサン、アドリアシン、オンコビン)を点滴で全身に入れた。
酔った感じの吐き気がすぐに始まった。しゃっくりが出たり、顔に湿疹が出た。
そして、合成副腎皮質ホルモン剤(プレドニン)を20錠、毎朝5日間服用する。
さらに、残した右の卵巣の抗がん剤によるダメージの対策としてリュープリンを注射して生理を止めた。

円香さんは、入院する前に『闘病少女まどか☆マギカ~駆逐!悪性リンパ腫✩~』という闘病ブログを始めた。

文章を書くことで精神的に安定した。
ブログを通じて同じ病気の人たちと繋がり、気持ちを共有することが彼女の救いだった。
その後、R-CHOP療法の副作用で血液中の白血球数は低下。
感染症を避けるために外出が許されない病棟での生活が続いていた。

死への恐怖

吐き気、嘔吐、便秘、ホットフラッシュ、そして骨髄抑制等の副作用が出る中、ブログを通じて患者たちとコミュニケーションをとれるのはありがたかった。

同じ病の人のブログを読むと安心できて、その人が書く投稿に共感したが、25歳と40、50代では状況が違う。「20代未婚」の自分は不妊リスクに悩まなければならない。

「あなたはすでに結婚できているし子供がいるからいいじゃないですか…」
投稿を読んで、そんな風に感じることもしばしばだった。

そんな時、俳優の高倉健さん(享年83歳、2014年11月10日没)が、悪性リンパ腫で他界したニュースを目にした。
いままでは死への恐怖を封じ込めていたが、このニュースをきっかけに死の不安がのしかかってきた。

R-CHOP療法の第1クールは11月26日に終わり、退院した。
自宅に帰れる嬉しさよりも、治療生活に対する暗い気持ちの方が強かった。
この頃から髪の毛が抜け始め、なぜ自分がこのような目に合わなければならいのかとつらかった。
そんな円香さんの気持ちをよそに治療スケジュールは進んでいく。

12月2日、R-CHOPの第2クールの初日を外来で迎えた。
抗がん剤治療が進むにつれて円香さんの心に浮き沈みが出てくる。
鏡で自分を見るたびに、お坊さんのようだと思った。

「がんになった自分を受け入れてくれる男性なんて現れるんだろうか…。これからは恋愛もできないかもしれない。未来を見つけられない」
つらい治療の先に明るいものがあれば心は救われるが、恋愛、結婚のことを考えると絶望しかなかった。

抗がん剤治療は順調に進み、MRI画像でがんの影が消えた。
しかし、標準治療は全6クールまで行う必要があると言われ、仕方なく続けることに。
第2クール以降は通院で抗がん剤治療を受けることになったが、自宅では楽しいことはなく、心の安定のためにインターネット上の闘病ブログを読み漁る毎日だった。

そんな円香さんを心配した友達が自宅まで来て励ましてくれた。
とても嬉しかったし、心の支えになった。
2015年3月10日、円香さんはついに全6クールのR-CHOP療法をやり遂げた。

しかし、今度は「再発が怖い」という気持ちが大きくなっていく。
治療を終えたが、鼻の奥のあたりに何かある感じがして気持ち悪い。
不安でたまらない円香さんは過呼吸症候群に陥った。

病気による適応障害

何もかもが嫌になり、人と会うことも恐ろしくなった。
精神的に追い詰められ、とうとう精神科の病棟に入院した。

入院すると自分が共感できる人がどこにもおらず、孤独感を増長させた。
もうブログも更新しない。
医師からは「病気による適応障害」だと言われた。

病棟での生活は閉鎖的でつらいが、屋外に出ると過呼吸症候群が重くなり、外に出られない。
そんな円香さんを気遣い、友人たちが見舞いに来てくれた。
一時は人と会いたくないなんて思ったが、周囲の人たちが支えてくれる。
自分は多くの人に支えられて生きているんだということがわかり、感謝してもしきれなかった。

4月14日、悪性リンパ腫の経過観察として受けたPET検査の結果が報告された。
「問題なし。完解」
これにより一気に先行きが広がった。
精神科の病棟も退院し、すべての治療が終わった。

子供と幸せな未来

保育園に復職をした日、年中の女の子に会った。
その子は、ウィッグをかぶっているため以前とは髪型が異なった円香さんのことを覚えていてくれた。
涙がこぼれそうだった。
仕事に戻れたことが嬉しかった。生きている実感があったし、がんや入院から解き放たれた喜びがあった。

闘病ブログは終わりにした。
自分に区切りをつけたかったからだ。
どんどん社会に戻っていく。力がみなぎってきた。

かつらもやめた。
とにかく好きなことをやると決めた。
アニメのコスプレをしたり、学生時代の友人と花火大会に行った。
入院中にやりたかったことが実現し、全てがどんどん普通になっていくのを、心から楽しんだ。

そして8月27日、ずっと違和感があった鼻の奥を治療する手術を受けた。
これで本当にすべてが終わった。

2017年3月、婚活を始めたら彼氏ができたが、がんのことは伏せていた。
しかし、結婚を意識した交際だからこそ、がんのことも、治療の影響で妊娠しづらいことも打ち明けた。
彼は円香さんの体を気遣い、寄り添ってくれた。
まるで少女漫画の主人公になった気持ちだった。

当たり前のことができる幸せ。
病気にならないとわからなかったことをかみしめながら、円香さんは幸せな日常を取り戻した。

小林円香さんの詳しい「がん闘病記」、及び「インタビュー記事」はウェブサイト『ミリオンズライフ』に掲載されています。ぜひ、読んでみてください。

plus
大久保 淳一(取材・編集担当)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイトの編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト「5years.org」を運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。

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