卵巣がん(ステージ3C)美容師に復職

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体験談のあらすじ

手や膝の関節の痛みがきっかけでがんが発見された美容師の川崎洋子さん。麻酔にアレルギーのある体質に加え、複数部位の検査や治療を繰り返した。不安と闘い続けながらも、息子のため、将来の仕事のために前を向き続けた。

本編

始まりの病

2002年8月。東京都在住の美容師・川崎洋子さん(取材当時58歳、2002年当時40歳))は手の指関節、肩、脚のひざ、あらゆる関節に痛みを感じるようになった。さらに、動きにくくなるだけでなく微熱も出始めた。「これは仕事にも差しさわりがでる」と近所の整形外科に向かった。

血液検査の結果、いくつかのマーカーが異常値を示しており、かかりつけ医から「膠原病(こうげんびょう)の可能性がある」と伝えられた。

紹介してもらった東京医科歯科大学医学部附属病院で二週間ほどの検査入院から、様々な検査に基づき疑われたのは、シェーグレン症候群、あるいは、全身性エリテマトーデス
「総合的に判断すると、膠原病(こうげんびょう)と考えて間違いないでしょう」というのが担当医の見解だった。

ステロイド治療をすることになり、症状が抑えられて日常生活が送ることができるようになったことで、川崎さんは仕事量を減らしながらも、子育てと家事の忙しい日々を過ごしていた。

‘がん’と人生の転機

年が明けて2003年2月。めったにない不正出血があった。
ステロイドの副作用かと思い、膠原病内科の主治医に相談してみたところ、「そのような副作用はない」といわれ、同じ病院の婦人科で検査をすることに。

しかし、6年前に母親を卵巣がんで亡くしていた川崎さんは、母親の治療中の姿を思い出し、「自分もがんかもしれない」という不安を感じた。そんな中で超音波検査と血液検査、CTレントゲン検査が行われていった。

帰宅すると、「次はご主人と一緒に病院に来てほしい」という連絡が。
「がんでありませんように…」
祈るような気持ちで夫とその日を過ごした。

翌日、担当医に卵巣と子宮が腫れており、悪性の可能性があることを伝えられた。

血液検査結果のレポートにはCA125値が17,500U/mlとあった。正常値は35 U/ml以下。驚くほど高かった。

母親の卵巣がんの経験から、この数値の意味を熟知していた川崎さんは17,500U/mlという数字が目に焼き付き、恐ろしさに震えた。

ところが、ここから信じられないことが続く。
入院が始まり、教授回診のときには「乳腺にがんが転移している可能性がある」と言われ、間もなく超音波検査とマンモグラフィー検査。
翌週は大腸への転移の可能性を示唆され大腸内視鏡検査。
次は胃への転移の可能性があると胃カメラ検査。

検査を受けるたびになんとも不思議な気持ちになっていく。
「半年前に膠原病と診断されてから、数多くの検査を受けたけれど、その間、どうしてがんは見つからなかったのだろう。そもそも膠原病の治療のために通院していなかったら不正出血くらいで、わざわざ病院で診てもらっただろうか。そうだとしたら、私のがんはずっと見つからなかったかもしれない…」
膠原病が大きな人生の転機になったのは間違いなかった。

結果は、卵巣と子宮が腫れているという。悪性の可能性があるが、手術をしないとわからないとのことだった。

麻酔アレルギーの中での手術

手術の前に行われた担当医とのインフォームドコンセント(治療とそのリスクの説明)の際、一番引っかかったのは、川崎さんの身体に内在する薬へのアレルギー反応だった。
膠原病の治療の時に、ロキソニンをはじめとする一部の薬にアレルギーがあり、解熱剤として投与しても逆にアレルギー反応で熱がさらに上がり続け、拒否反応を示したほどだ。

鎮痛剤も麻酔の一種と考えた場合、手術に使う麻酔薬にもアレルギー反応が出ることは十分考えられる。
鎮痛剤にアレルギー反応が出た場合は、手術を中断せざるをえない。

不安と恐怖の中で悩んだ。

何より気がかりなのは5歳の息子のことだった。ただでさえ入院のせいでさみしい思いをさせている息子のためにも、ここでひるむわけにはいかないと決心した。
「手術は絶対にうまくいくから」
自分を奮い立たせ、手術の成功を信じた。

5月1日、手術の日。
手術は無事終了し、取り除いた部位を病理検査に出したところ、やはり悪性腫瘍だったという。

手術では病巣となっていた卵巣、子宮、そして大網(たいもう)が取り除かれた。
進行ステージは、ステージ3C。「漿液性腺癌(しょうえきせいせんがん)」という評価だった。

手術が終わりホッとしたが、消化器の癒着(ゆちゃく)が厳しく、リンパ節をきれいに取り除く郭清(かくせい)ができていなかったのが、心残りだった。

手術から8日目の5月9日。
今回の手術ではリンパ節を取ることができず、転移があったので、抗がん剤による全身化学療法を行うこととなった。

やはり来たか。もう覚悟をしないといけない。
川崎さんは外出許可をとり、勤務先の美容室で自分の頭に合うウィッグ(かつら)を作ってもらった。

長期にわたる抗がん剤治療

5月16日、抗がん剤治療開始。
使用した薬は、タキソールとカルボプラチン

この治療は2週間入院して抗がん剤治療を行った後、次の2週間を退院して回復期に充てる4週間を1クールとするものだった。
服用すると手足のしびれが出始め、7日目には恐れていた薬アレルギーが原因で身体中に発疹が出たため、6月9日からの第2クールでは薬の組み合わせを変更し、タキソテールとカルボプラチンを投与した。

ここから10月の終わりまでの7クールと、長期間となる抗がん剤治療が始まった。

10月末に7クール目の抗がん剤全身化学療法を終え、マーカーのCA125が「6208.0 U/ml(5月28日)」から「11.9 U/ml(10月30日)」にまで下がった。治療は終了したかと思い、ホッとしたのもつかの間、11月17日の担当医との面談で、前回の手術で取り切れなかったお腹のリンパ節をとるため2回目の手術をした方がいいと勧められた。

ショックだった。
抗がん剤治療により腫瘍マーカーCA125は下がり、抗がん剤治療の手ごたえを感じていたため、本当に2度目の手術を受ける必要があるのか解らず、迷いに迷った。

知人の婦人科の医師に相談したところ、「手術を受けた方がいい」とのこと。何度目かの迷いを振り切り、12月4日、2度目の手術が行われた。

癒着(ゆちゃく)が厳しく難しい手術となったが、腰のリンパ節と生検により取った組織の病理検査をしたところ、すべてがんの壊死(えし)組織だとわかり、胸をなでおろした。

2003年のクリスマスと大晦日。
川崎さんは自宅で、夫、息子、そして父親と一緒に過ごすことができ、2月の不正出血から始まった厳しい2003年がようやく終わろうとしていた。

2004年1月から担当医に追加で3クールの抗がん剤治療を勧められた。根治を目指すこととなった。
正直、「またあれをやるのか」と辟易したが、これまでの入院とは違い、治療のゴールが見える入院治療だったため受け入れた。

合計10クールの全身化学療法を終え、2004年3月12日に退院。
通院による在宅での抗がん剤治療へと替わった。

ラステットという錠剤の薬を毎日3週間服用し、その後1週間回復期に充てる。
この4週間のクールを翌年の2月まで続けるということだったが、元の職場に復職することができ、川崎さんは、一度は失ったものを再び取り戻し始めた。

3月には息子の卒園式に参加することができ、治療中の目標だった小学校の入学式にも参列することができた。長い悪夢が終わったと実感した瞬間だった。
まだ体調は回復途中であるものの、ウィッグをかぶり、嬉しそうな顔で写っている集合写真は、川崎さんの宝物だ。

美容の視点から支える側へ

治療が長期にわたったので、時間とともに流行が変わる美容業界に復帰するのは不安だった。しかし、川崎さんは入院中も美容雑誌を見て勉強を続けていた。10月にはがん治療中に「ファッションコーディネート色彩能力検定」試験を受けて合格していた。
つらく厳しい治療中でも、仕事に復帰する日のことを考えて準備をしていたのだ。

また、嬉しいことに膠原病のステロイド治療も2006年3月で終えることができた。

大切な日常を取り戻していった川崎さんは、2012年に自宅近くの杉並区の美容室に転職した。
新しい職場は、カット、ヘア、パーマのみならず、ネイル、エステ、着付けまで行う総合的な美容室で新しいことにどんどんチャレンジする雰囲気があった。

今は、医師、看護師、美容師の3専門職の人たちが一緒になって、がん患者を支える取り組みをこの美容院で導入できないかとオーナーと相談しているところだ。抗がん剤治療等で髪の毛を失う女性患者には治療のみならず美容の側面からの精神的サポートが大切だ。だからこそ、医療と美容の両面で女性がん患者の生活の質(QOL)を高める取り組みに挑戦しようとしている。

かつては励まされる側にいた川崎さんが、いま患者さんを励ます側になった。

川崎洋子さんの詳しい「がん闘病記」、及び「インタビュー記事」はウェブサイト『ミリオンズライフ』に掲載されています。ぜひ、読んでみてください。

plus
大久保 淳一(取材・編集担当)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイトの編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト「5years.org」を運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。

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