乳がん(ステージ4)手遅れではなかった

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体験談のあらすじ

乳がん(ステージ4)「もう手遅れなんです」と医師から告げられた。しかし、比屋根恵さん(取材当時48歳、2015年当時45歳)は希望を持ち続けた。絶望の淵から牧場経営の現場に復帰する感動のがん闘病記。

本編

繁殖牧場への嫁入り

沖縄県石垣市在住の比屋根恵さん(取材当時48歳)は、37歳のとき空港検査員の転勤辞令がおり沖縄県石垣島に移住した。
その後、空港検査員の仕事を退職し、獣医師が経営する牛の繁殖牧場に転職。
牛の世話が大好きだった彼女にとって願ったり叶ったりの転職となった。
向上心の強い恵さんは、有名な比屋根牧場でも手伝いを始め、それが縁で牧場の息子・和史さんと結婚。牧場の嫁となった。

乳がんの番組

結婚から1年余りが経った2009年・春、恵さんは38歳になっていた。

この日も朝から牧場で働き詰めだったが、昼休みの時間に家事をするために自宅に戻った。
テレビをつけたら乳がんのことを取り上げている番組が流れていた。
そして放送中、自分でできる触診のやり方が説明された。
恵さんはテレビを観ながら真似して確認してみる。

すると…、
右胸の乳房の下にパチンコ玉よりも小さいくらいの固いコリっとしたものがある。
「あっ…、私にもある」

だが触っても痛くはない。
このときは、牧場の仕事の合間に戻った自宅で、家事をさっさと済ませて牧場に戻らなくてはならないから、それ以上の行動を起こせなかった。

「早く仕事に戻らなくちゃ」
比屋根牧場には約130頭の牛がいる。
その世話を夫の和史さんと2人だけでする毎日。
自分のことを考える余裕がなく、目の前にある日々の課題をこなすことで精一杯。
結果的に、このままやり過ごし、あっという間に長い月日が経っていった。

生検

乳がんのテレビ番組を観た日から1年半が経ったある日、自分の胸を触診した。
“しこり”は、大きくなっていて、形が変わっていた。
「早く調べて、乳がんじゃないと安心したい…」

2010年・夏
石垣島にある“かりゆし病院”の診察予約を取ってマンモグラフィーと超音波検査を受けた。

「確かにありますね。でもこれが良性なのか、悪性なのか、まだこの段階ではわかりません。生検して詳しく調べましょう」

1週間後に受けた生検の結果はというと…。
「現段階では良性とも、悪性とも判断がつきません。半年後にもう1回検査をしましょう」

良性と言い切る医師

生検までしたのに判断がつかないと言われ恵さんは釈然としない。
だから実家(新潟県)近くに住んでいる看護師の姉に連絡し、新潟県の病院の乳腺外科で診察してもらうことにする。
2010年・秋、様々な検査が行われた。
マンモグラフィー、触診、血液検査、超音波(エコー)検査、
担当した男性医師は年配のベテラン医師で堂々とこう説明する。

「これは、乳腺の繊維腺腫です。良性だから心配いりません。でも、ちょっと石灰化していますね」
石灰化とは細胞の老化現象の一つだから心配ないと説明された。
それでも不安な恵さんは確認のため「良性から悪性に変わることはありますか」と聞いてみた。

すると…、
「私の経験では、それはありえません。もし心配だったら今後、新潟に帰省するとき経過を調べてみたらいいです」

この医師の悪性に変わることはありえないという言葉が、その後の恵さんの人生に大きな影響を与える。

2年が経ち2012年、右の胸のしこりは固く大きくなっていた。乳房の形も変わっている。
大丈夫、これは良性なんだから…。

恵さんは自分が乳がんになって仕事が出来なくなったら家族と飼育している牛たちに申し訳ないと思い、この事実を夫に隠していた。
ただ、心の中では半分の確率でがんかもしれないと思っていた。

咳が止まらない

ある夜、痛みで声を上げるくらいの激痛が胸に走った。
まるで中で何かがはじけたような感覚があった。
がんが進行すると腫瘍がはじけるという図を思い出し恐ろしくなる。
しかし、医師が2年前に言った「私の経験ではありえない」という言葉と、いまさら乳がんとわかり家族に迷惑をかけられないという思いが、病院に行くのをためらわせる。

2015年、この年は年明けから咳が出始めなかなか止まらない。
しかし、喉が腫れるわけでもなく、鼻水も出ない。カラ咳が出るだけだ。
「これ、なんだろう…」気になっていた。

2015年2月14日土曜日、子牛の競(せ)りの日だった。
市場で無事に競りを終えてほっとしたら今まで感じたことの無いような頭痛がする。
絞めつけられるような強い痛み、急いで八重山病院を訪れた。
すると、胸部レントゲン写真を診た医師の顔が歪んだ。

「右の肺が真っ白です。こんなに胸水が溜まるのはおかしいですよ…、なにか、思い当たることはありませんか?」

恵さんは右の乳房にしこりがあることを伝えた。
医師は驚いて診察し、これは相当に深刻な状態でこの病院では治療ができないと言う。

和史さんと二人、悲しさと恐怖心で泣いた。

胸膜播種

深刻な乳がん。

医師も口数が少ない。
夫の和史さんが「もう、だめなんですか?」そう聞くと、医師は黙ってうなずいた。

それから家族で話し合い、恵さんは実家のある新潟県の県立がんセンター新潟病院に転院する。
2月24日、真冬の寒い日。
担当した医師は肺が真っ白で、とても悪い状態だと説明した。
がんは、右の乳房と、両脇のリンパ、肺、そして骨にまで転移。
ここまで進行すると外科的に手術することは難しく、抗がん剤による延命治療になると説明される。
胸膜の中にがん細胞が入り込んでいる「胸膜播種」だという。

恵さんの診断結果は、
乳がん、浸潤がん、ステージ4、ルミナルB、HER2・陰性

40代の女性医師は「もう、手遅れなんですが…」といった上で、抗がん剤(パクリタキセル)治療を始めると説明。
薬の投与が始まると、さっそく副作用が現れ体調は悪化。
夜になると恐怖心が増し眠れない日が続いた。

抗がん剤の効果

しかし、治療を始めてから1ヶ月後、すごい事が起こる。
腫瘍マーカーNCC-ST439が陰性化したのだ。
CT画像上も腫瘍の影が小さくなってきていると言われる。
信じられないことが起こっていた。
恵さんは以前、がん治療に関する本を読んだとき、抗がん剤治療で治った人のかなりの割合が早い段階で薬の効果が出たと書いてあったのを思い出す。
「もしかして…、そういうことなのかな…」
希望の光がかすかに見えた。

2015年5月、パクリタキセルを投与する治療開始以降2回目のCT画像検査。
主治医から「腫瘍の影がどんどん小さくなってきています」と嬉しいことを言われる。
つい2ヵ月前、手遅れと言っていた医師が信じられないという感じだった。

6月、この頃になると胸水がどんどん減ってきていて、画像検査医の所見にはこうある。
「効果が顕著に出ています」
本当にすごい事が起きていた。

転院

2015年7月、治療効果をみるために受けたPET-CT画像検査で「劇的に良くなっている」と言われる。
このまま良い状態に留まってくれるんじゃないか、そんな気持ちすらしてきた。
2月に石垣島から新潟に渡り、既に5ヵ月が経っていた。

ただ、主治医と意見が合わなくなり始めたのもこの頃だ。
なぜなら、抗がん剤治療の合間に退院するのだが、その自宅待機中に恵さんが石垣島に戻っていることを医師が良く思わなかったからだ。
牧場に行けば、牛の世話をして体に無理がかかる。
牛舎はとても衛生的な場所とは言えない。
抗がん剤治療中で免疫力が落ちているがん患者が、そんな環境に行くことを医師は推奨できない。

一方、牧場に戻ることで精神的に解放され、次の治療に対するモティベーションが得られた恵さんは、主治医に了解をお願いする。
平行線の議論だった。
11月撮影したPET-CTの結果はさらに改善。
そしてこの検査を最後に、新潟県立がんセンター新潟病院を半ば飛び出した形で退院となった。
主治医と今後の治療について話したが折り合いがつかなかったからだ。
その後、セカンドオピニオンを受けた東京の昭和大学病院に転院。
乳腺外科の50代の男性医師がこう言った。
「転移巣が消えているし、これ以上の抗がん剤治療は必要ありません。手術をする必要もないですよ」
ホルモン療法に移ることになった。

元の生活に戻る

2016年2月、ホルモン療法開始。
1日1回、朝食後にタモキシフェンを服用する治療。
外来での診察は3ヶ月に1回、東京の昭和大学病院で行うもので、ほとんどの時間を石垣島で過ごす。
1年前には想像もできなかったが、元の生活に戻っていた。
あの時は胸膜播種を発症し、みんなが「もう、ダメか…」と覚悟した。

でも、胸膜播種で本当に危うかったときから4年が経った今、恵さんは夫の和史さんと牧場で牛の世話に汗を流している。

治療を続けているから体調の良い日と悪い日の波がある。
でも家事から何から自分でやれているのだ。

今、改めて牛飼いとして幸せだと思う。
家族のような牛たちの世話を毎日しているが、牛が幸せそうにしているのを見ると自分も幸せになるという。
この4年、恵さんは自分と向き合った。
日常のありがたみがわかり、生きていること自体に価値があると知った。
今日一日を大切に生きる恵さんだ。

比屋根恵さんの詳しい「がん闘病記」、及び「インタビュー記事」はウェブサイト『ミリオンズライフ』に掲載されています。ぜひ、読んでみてください。

plus
大久保 淳一(取材・編集担当)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイトの編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト「5years.org」を運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。

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