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体験談のあらすじ
2001年に慢性骨髄性白血病を発症した久田邦博さん。製薬会社のMRとして働き盛りの30代前半のことだった。4人の子どもたちはまだ幼く、自分の人生もまさにこれからという時に立たされた人生の岐路。生と死について苦悩しもがいたが、その先には「新しいキャリア」という意外な道があった。
5yearsプロフィール: https://5years.org/users/profile/549
本編
突然現れた病気
2001年7月12日、久田邦博さん(取材当時54歳、2001年当時38歳)は、神奈川県の総合病院を訪れた。降圧剤を服用していたが、4月の転勤で静岡から神奈川に移ったため、通院先も変えることになったからだった。
新患だったことから血液検査も受けたが、次回訪院を待たずに来た連絡に、久田さんは、「きっと、良い結果ではないのだな」と、感じていた。
担当した医師は淡々とした口調でこういった。
「血液検査の結果、白血球の値が28,000まで上がっています。血液内科の担当医が常勤している病院で診てもらってください。紹介状を書きます」
自宅に近い別の総合病院への紹介状を書いてもらった。
別れ際に、医師が久田さんの目をぐっと見つめて、「絶対にすぐその病院にかかってください」と言った。
その真剣さから久田さんの動揺が始まった。
家でインターネット検索を始してみると、検索上位に表示される病名は「慢性骨髄性白血病(CML)」だった。白血病=死のイメージが強く、恐ろしくなった。
翌日。紹介先の総合病院を訪れた。
診察室に入ると、感じの良い若い男性医師がこう切り出した。
「(病名は)何だと思っていますか?」
意外な質問だった。
久田さんは医師に否定してほしくて「慢性骨髄性白血病じゃないかと思います」と返したが、
医師から「たぶん、そうでしょう」と言われた。
ただ、正式な診断は、血液内科の検査を受けてからだ。結果がわかるのは1カ月後となる。
しかし、この1カ月間は人生で最もつらい時間だった。「がん」かどうかはっきりせず、あれこれと嫌なことばかり、考えてしまったからだ。
俺が何をしたっていうんだ?
MR(医療情報担当者)として仕事人間だった久田さんが、この頃、初めて目が覚めたことがあった。
それは、血液内科での骨髄穿刺の日程を8月2日ではどうかと尋ねられた時のことだ。
8月2日は、会社で大事な会議がある日だった。
「先生、その日は予定があるので次の週でもいいですか?」
しかし、診察室を出てからハッと我に返る。
「『会社の会議があるから2週間後』なんて言ったけれど、何を考えているんだ。自分の命がかかっているというのに」
命より会議を優先している自分が愚かに思えてきた。
すぐに診察室に戻り、医師の提案通り、8月2日に変更してもらった。
そして、8月2日。
看護師に誘導されて処置室に入った。
ベッドの上であおむけになって胸を出す。
医師が胸の骨に太い針を刺す。
痛い。
硬い骨に針を刺すため、医師は全体重をかけて骨に針を押し込んだ。そして骨髄液を抜き取る。
骨髄穿刺とはそんな酷な検査だった。
「こんな大変な検査をするなんて、もう逃げられないってことだ。なんで白血病にならなくちゃいけないんだ。俺は一体何をしたんだ」
30代半ばの働き盛り。3年前は課長職に昇進するための試験準備で、1年間も勉強を頑張った。
論文を読み、経営学を学び、休日にホテルで缶詰めになって勉強したこともある。
「神様が死を宣告するようなことを、自分はしてしまったのだろうか?」
「がんで死んでしまうのなら、自分は何のために生まれてきたんだろう…」
自問自答するが、答えは出ない。
悩ましい選択肢
それからは再びインターネット検索を行い、病気と治療法について勉強する毎日になった。
自分が助かる可能性がどこかにあるのではないかと期待して調べる。
その結果、考えられる治療法は大きく2つ(2001年4月時点で考えられた治療法。現在は、選択肢が増えている)。
1つは骨髄移植。もう1つは毎日インターフェロンを身体に注射するインターフェロン治療だった。
骨髄移植は、何より自分の身体に合う骨髄を提供してくれる人が必要だ。移植直後の5年間はインターフェロン治療より生存率は下がるが、治癒し長く生きられる可能性がある。
一方のインターフェロン治療は、5年生存率は骨髄移植よりずっと高い。ただ、ゆっくりと生存曲線が下がって治る可能性の少ない治療法だ。
究極の選択の中、心は揺れた。
「自分は何を優先させたいのか?」
真っ先に浮かぶのは、妻と4人の息子たち(10歳、8歳、6歳、4歳)のことだった。まだ幼く、みんな可愛い盛りだった。
「自分が他界したらこの子たちを守ってやれない。大学進学も諦めてもらうことになるかもしれない。
せめて長男が20歳になるまでの今後10年間を生きる方を選択したい」
結局、インターフェロン治療に決めた。
8月31日、担当医から骨髄穿刺の検査結果を伝えられた。
「やはり慢性骨髄性白血病です」
そう宣告され、逆にすっきりした。
その日、自宅に帰って妻に病名を伝えると、こう言われた。
「なっちゃったもの仕方がないから、クヨクヨしない方がいいよ」
頼もしかった。
この人なら、自分の4人の子供たちを立派に育て上げてくれると思った。
さらに、気丈な妻は、久田さんと子どもたちのためにこうも言ってくれた。
「あなたはこれまで仕事中心の人だったけれど、もう仕事はいいよね。会社も辞めていいから、自分のやりたいことをして、家族との思い出を作ってほしい」
しかし、家族の重荷になりたくないという思いもあり、仕事は続けられる限り頑張ろうと決意した。
9月3日、インターフェロン治療が始まる。最初の2週間は体調が変化しやすいため、入院治療だ。
初日、注射した夜に40度近くまで発熱した。さっそく座薬を入れて対応した。
「確かにこんな反応が出るのなら、入院しなくてはだめなんだな」そう感じた。
新しいキャリアへ
会社勤めは変わらず続けていたが、上司には今後のキャリアについて相談していた。
これまでやってきたMRの仕事を続けるのは今の自分には難しいこと、心身の負担が少ない地元・名古屋に帰りたいことを伝えた。
会社は久田さんの意向を聞き入れてくれ、2002年4月付で、名古屋市にある支店の研修部門への異動が決まった。家族6人で引っ越しすることになった。また、名古屋への転勤に伴い新たな病院が必要になった。
2002年4月20日、名古屋の総合病院で診察を受けた際、担当医からこう言われた。
「インターフェロンが効かなくなったら移植を考えると言われますが、インターフェロンを続けていると移植が難しくなることがあります。新薬は治療成績もいいし、作用機序も理に適ってるため、僕だったら今この時点で新薬の方に治療を切り替えます。どうされますか?」
分子標的薬イマチニブが白血病のがん細胞の増殖を抑える新薬として、前年の秋に日本でも承認されたことは知っていたが、総合的に考えて、今は切り替えないことにしていた。
効果が出ている治療薬を替えることが命がけの選択ともいえるだけに、悩みに悩んだが、担当医の言葉が胸に響いたこともあり、最後は覚悟を決めて、切り替えることにした。
この切り替えにより、副作用が軽くなった。
それまでは、息が切れるようなだるさがあったが、まったりとした疲労感に軽減された。
「とりあえず、よかった」そう感じた。
求められる人材になるために
一方、会社の新しい研修担当の業務には苦戦していた。
話す相手が社員とはいえ、人に教えることの難しさを痛感していたのだ。
それまではMRとして、飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍していたのに、新しい役割をうまくこなせない。
プレゼンテーションには自信があり、社内で一番上手いとも言われたこともあった。
しかし、インストラクター養成講座で指導を受けると、これまでの自分は一方的なプレゼンテーションばかりしてきたことに気づく。
どんな環境になっても稼げるプロのインストラクタースキルを身につけようと決心し、論理構成技術と話し方を1から身につけることにした。
さらに、コーチング、産業カウンセリングなど、さまざまなセミナーや養成講座を受講して、対話のスキルを磨いていく。
久田さんの対話スキルとプレゼンテーション技術はメキメキと向上した。
やがて、「社外からも声がかかる講師になりたい」と考えるようになる。
そんな折、2003年2月に講演した診療放射線技師会で、一人の技師に声をかけられた。
「久田さんなら医療関係者の『接遇』をテーマにした講演ができると思います」
がん経験者であり、薬剤師、MR経験者、そして、プレゼンテーションスキルがある。
こんな逸材はなかなかいないということだった。
「接遇」というテーマをヒントとしてもらった久田さんは、かつてMRとして担当していた病院で講演を提案。了解を得て行った講演には、予想を超えて150人超の参加者が集まった。
好評のうちに終わり、自信を深めた。
それから、どんどんと講演の依頼は増え、活躍の幅が広がっていった。
あれから16年間が経った今、久田さんは、1年間に70回を超える患者講演を行っている。
慢性骨髄性白血病の治療も安定し、進行を抑えられている。
息子たちも、25歳、23歳、21歳、19歳と成長した。
次のステージの自分を思い浮かべ、積極的に人生を楽しんでいる。
久田邦博さんの詳しい「がん闘病記」、及び「インタビュー記事」はウェブサイト『ミリオンズライフ』に掲載されています。ぜひ、読んでみてください。