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体験談のあらすじ
赤荻深雪さん(取材時34歳/発症時3歳)は、3歳の時に小児がんを発症した。小さな体で抗がん剤治療や手術を受けたが、母親の献身的な愛情により、闘病生活の思い出は楽しいものだったという。5歳で退院後は元気に成長し、社会人として働くようになった時、愛情豊かに育ててくれた母がスキルス胃がんになった。
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本編
3歳で小児がんに
赤荻深雪(みゆき)さんは、1983年に千葉県千葉市で生まれた。
当時、父は単身赴任で、母と姉の三人暮らしだった。
深雪さんが3歳のとき、左の首の付け根に小さなしこりが見つかった。
母親が近所のクリニックに連れていったところ、風邪と診断された。
しかし、一向に治らないため、他の医療機関も複数訪れて診てもらったが、はっきりしなかった。
しかし、母親特有の直感で「何かがおかしい」と感じていたので、千葉大学医学部附属病院を受診した。
千葉大学医学部附属病院・小児科外科での検査の結果、最終ステージまで進行した小児がん(神経芽腫)だと判明した。
母は仕事をやめ、5歳の姉を自分の両親(深雪さんの祖父母)にあずけ、病院に泊まり込んで深雪さんの看病をした。
姉は、妹のために毎日仏壇の前で手を合わせ「みゆきのびょうきがなおりますように」とお祈りをしていたという。
1987年1月14日、深雪さんは病理検査のために頸部リンパ節生検術を受ける。
幼い深雪さんにとって、大変な検査だったはずだ。
が、意外にも、深雪さんは入院病棟での生活を楽しんでいた。
それは、大好きなお母さんと一日中一緒に居ることができたからだ。
大部屋には様々な年齢の小児がんの子供たちがおり、みんなで遊び、看護師が企画するクイズ大会などを楽しむ。
抗がん剤治療(シスプラチン、エンドキサン)は辛かったはずだが、深雪さんの記憶には、楽しい思い出しか残っていないのだ。
抗がん剤治療の副作用で髪の毛がなかった深雪さんは、4歳の誕生日プレゼントに「何が欲しい?」と聞かれて、「髪の毛がほしい」とねだった。
そして、特注で子供用のカツラを作ってもらった深雪さんは嬉しくてたまらなかった。
外出するときは必ず被った。
当時の小児がん(神経芽腫、ステージ4)の5年生存率は低かったそうだ。
深雪さんは、母と医師が重たい雰囲気の中、真剣に立ち話をしているのを見たことがある。その時の母の悲しそうな表情が目に焼き付いている。
母は、深雪さんにありったけの愛情を注いでくれた。
辛かったはずの入院生活を楽しい思い出に変えてくれた。
大好きなお母さんと一緒だったから、深雪さんは治療を頑張ることができたのだ。
その後、深雪さんは外科手術(左縦隔神経芽腫摘出術(左開胸))を受け、
https://ganjoho.jp/child/cancer/neuroblastoma/treatment.html
5歳の時に退院した。
左脇の下から背中にかけての大きな手術痕は今でも残っている。
左側だけ副交感神経を断絶したため、今も左眼の瞳孔の調整が上手く行かず、眩しさを感じることもある。
「生きているだけで儲けもの……?」
小学校2年生の時、同じ病室にいた子のことを思い出した。
母に聞くと、その子は亡くなり、大部屋にいた子供たちは、深雪さんともう一人しか生きていないという。この時初めて、自分が小児がんを患っていたことを母から説明された。
幼い頃からある、左脇の手術跡、左側交感神経断絶の影響。
その理由がわかって安心した。
自分ががんを患っていたことを教えてもらったことで、幼いなりに心の整理がついたのだ。
母は、娘が死亡率の高い病にかかったことで毎日不安に日々を過ごしていただろうし、姉だって幼い時に母と引き離され、さみしい思いをしたはずだ。
なのに、二人とも一度たりとも、「あなたが病気になっていなかったら…」などと言ったりはしなかった。それどころか、明るく支えてくれた。母と姉には感謝しかない。
高校の進路相談の時、父から「お前は生きているだけで儲けものだから、生きているだけで十分だ」と言われた。
きっと深雪さんを案じた言葉だと思うが、まるで期待されていないように感じた。
「生きているだけで十分なわけないじゃん」
高校卒業後に地元のスーパーに就職したが、負けず嫌いの深雪さんは、パソコンスキルを身に着けたいと思い、3カ月で退職。マイクロソフトAccessなどのデータベースソフトを学び、派遣社員としてパソコンスキルを取得し、22歳の時、正社員として伊藤忠商事のグループ会社に就職した。
更に米国大手SNSサイトの日本支社で働き、自身のスキルを磨いた。
頑張れば頑張るだけ報われる感じがして、更にやりがいを感じた。
2010年、27歳の時には、一般職から総合職への職位変更となり、一層責任ある立場まで上がった。
うつ病からの復帰
しかし、目標を達成した満足感と同時に、虚しさも感じるように。
頭痛がひどくなり、頑張りたいと思っても仕事ができない。
そんな自分を責めているうちに、抑うつ状態になった。
28歳の時、会社を休職した。
母に相談すると「一回しかない人生なんだから、お母さんと楽しく一緒に暮らせばいいじゃない」と言われ、実家に帰って家族と一緒に暮らすことに。
この時、母に小児がんになった時のことを聞くと、母は当時、肉体的にも精神的にも辛かったことが深雪さんには推測できた。
翌年、ふとした縁で、小児がんの治療をしてくれた医師と再会した。医師は、立派に成長した深雪さんに驚くと共に、感激してくれた。
健康でいられることが、いかに有難いことか。
かつて父親が言っていた「生きているだけで儲けもの」の意味がわかった気がした。
余命1カ月宣告
再び、元の生活に戻った深雪さんだったが、2014年夏、母親が「お腹が痛い」と言い出した。食欲もなくなり、病院を勧めてもなかなか行こうとしない。
深雪さんの不安が募った。
2015年10月、母が血を吐いて倒れたと連絡がきた。
千葉市立海浜病院で詳しい検査を受けると、スキルス胃がんのステージ4だという。
肝臓と卵巣にも転移しており、腹膜播種まである。
早ければ、年末までの命だとも言われた。
あまりにも突然な余命宣告だった。
頭が真っ白になり、何も考えられない。
かつての母も同じような気持ちだったのだろうか。
「人間は欲張りで、生きていても欲が出てくるから、これくらいがちょうどいい」
母はそんなことを言う。
母の抗がん剤治療(TS-1、シスプラチン)が始まった。https://ganjoho.jp/public/cancer/stomach/treatment.html
副作用はあったが、治療効果が出始めた。
仕事を終え、見舞いに行くと、母は深雪さんの夕食にと病院内のお弁当を買って待っていた。
娘の食事の世話をする優しい母親。
「どこまでも私はお母さんの子供なんだな……」そんなことを感じた。
抗がん剤治療は、2016年3月まで続き、5月には胃を亜全摘、左右両方の卵巣と上行結腸の一部を切除する手術が行われた。
手術の結果、肝臓には活動性のがん細胞は見つからず、腹膜播種も痕跡があるのみ。
ようやく、ほっと息をつけた。
その後、術後全身化学療法(TS-1、シスプラチン)が始まった。
https://ganjoho.jp/public/cancer/stomach/treatment.html
術前と合わせ、合計7クールの抗がん剤治療をやり遂げ、2016年7月に退院した。
自宅に戻った母は、胃を切っているため、ダンピング症状が辛そうだった。
深雪さんは複雑な気持ちで母の身を案じていたが、9月には職場に復帰することができた。
母親は「1ヶ月」という余命宣告を受けてから1年近くがたっていた。
12月のCT画像検査では異常なし、腫瘍マーカーも陰性を続け、大変な状態は乗り越えたと家族全員で喜び合った。家族で温泉旅行にも行った。
あなたが守ってくれたから、生きていける
しかし、2017年4月下旬。
姉から母のスキルス胃がんが再発したというメールが届いた。
会社に看護休暇を申請し、母と過ごす時間を増やした。
「お母さんが、私の小児がんを治してくれたのに、私は治せなくてゴメンネ」
悔しくて悔しくて涙が止まらなかった。
母は、「深雪のせいではないよ」と優しく微笑んでいた。
「私はお母さんなしでは生きれない」
ずっと思ってきた。
そんな大切な母が、8月4日に逝った。
まさか本当にいなくなるなんて……。
悲しいというよりも、胸に穴がぽっかりと開いたようだった。
深雪さんは、がんで家族を失うことを考えたことがなかった。
自分と同じように治ると思っていたからだ。
街で見知らぬおばあちゃんとすれ違うと、「母もあれくらいの年齢まで生きてくれればよかったのに……」と涙ぐむ時がある。
でも、もしこれが反対だったら、母はどんなに辛かったことだろう。
今となっては、自分が小児がんを生き抜いたことは、母親への最大の親孝行だったようにも思える。
健康って本当に難しい。
どんなに健康に気をつけていても、がんになる時はなるし、ならない時はならない。
会社の健康診断の時、「小児がん(神経芽腫)」の文字を見た医師は驚いていた。
子供の腫瘍を見つけるのは難しいそうだ。
深雪さんの小児がん見つけてくれたのは母だった。
「私は母に助けられた」
改めてそんな想いを強くした。
「お母さん。私は今、34歳。あなたが守ってくれたから、今も元気に生きているよ」
赤荻深雪さんの詳しい「がん闘病記」、及び「インタビュー記事」はウェブサイト『ミリオンズライフ』に掲載されています。ぜひ、読んでみてください。