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体験談のあらすじ
わずか36歳で大腸がん(S状結腸がん、ステージ4)に罹患した森島俊二さん。11年間で6回入院し5回復職。5種類の抗がん剤治療をこなし、都度乗り越え、這い上がる感動のがん闘病記です。
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本編
「プロポーズらしいプロポーズはしてないんですよ」
照れと恥ずかしさからそうなったと言う。
大腸がんの肝臓転移から8ヶ月後、お付き合いしていた朋子さんと入籍した。
大腸内視鏡検査
2006年・夏
神奈川県在住の森島俊二さん(取材当時46歳、2006年当時36歳)は健康診断の結果を見て「おやっ」と思った。
「便潜血検査:陽性、再検査・要」
でも、まだ36歳と若いから再検査を受けなかった。
半年が経った2007年1月。
トイレで用をたすと時々便に血が混じってくる。
「ぢ」かな?お尻を紙で拭くと血がつくことがあった。
そして梅雨に入った頃、今度は「いちごジャム状」のドロッとした血が出た。
あめ玉くらいの大きさだ。
ネット上で情報検索するが、痔とは思えない。
だけど仕事が忙しいから、会社を休んで病院には行きにくい。
やがて貧血状態になり、7月下旬、相模原市の総合病院を受診。
痔(ぢ)と言われることを期待していた。
しかし医師は肛門を触診して言う。
「これは痔ではありません。なるべく早く大腸内視鏡検査をしましょう」
それから1週間後の7月31日、内視鏡検査を受け、両親と一緒に結果を聞いた。
「生検に出さないと悪性かどうかわからないですが、観るからに悪性だと思いますよ。病理検査の結果がでたらすぐに手術できるように準備しましょう」
医師が言う「悪性=がん」は理解できた。
1回目の腹腔鏡手術
自宅に戻ると母親が「大変なことになっちゃったね」と寂しそうに言う。
親に心配かけていることで負い目を感じた。
そして8月に入り病院で検査を受けた。
CT画像検査、超音波検査、腸にバリュウムを入れて撮影する注腸検査、血液検査、MRI…
2007年・夏、 総合病院
「病理検査の結果、がんでした。S状結腸にがんがあります。なるべく早く手術して取った方がいいですよ。この病院でもできますがどうしますか?」
手術は腹腔鏡で行うと説明され、10日間程度の入院で1カ月もすれば仕事に復帰できるという。
2007年8月24日
腹腔鏡によるS状結腸がんを切除する手術が行われ、無事、3時間程で終了。
「終わってよかったね。ちゃんと大腸は取れたってよ。リンパも取ったって。とったから大丈夫だよ」母親からそう言われた。
森島さんの大腸がん(S状結腸がん)は、進行ステージ3a。
8月の終わりに退院し、1カ月ちょっと休み10月1日から復職する予定にした。
肝転移の知らせ
手術後の治療はというと10月より経口の抗がん剤「UFT」治療が始まった。
1日3回、4週間毎日服用し、次の1週間は休薬期間。
この化学療法「UFT」治療を合計6クール。
翌年の4月に終了する見込みだ。
インターネットで調べると同じ大腸がん(進行ステージ3a)の5年生存率があった。
完治が7割、残りの3割は再発、或いは転移とある。
「俺の場合、半々かな…」そんな気がした。
静かな気持ちで無機質の数字をながめた。
そんな森島さんに両親はいつも通り普通に接してくれた。
特別扱いせず「がんになる前と同じ」に接してくれたのが嬉しかった。
やがて半年が経ち2008年4月、抗がん剤治療は、すべて無事に終了。
慌わただしい9カ月間、森島さんは仕事と治療を両立させて乗り切った。
しかし…、
2009年6月、病院に検査結果を聞きに行ったとき担当医が真剣な顔をして言う。
「今回のCTの結果、肝臓に影が見つかりました。大きさは、3cm×4cm。大腸がんの肝転移だと思います。まず抗がん剤治療をやりましょう」
「えっ…?」
ショックだったし驚いた。肝転移については「ついに来たか…」という思いと「半年前は映っていなかったのに、わずか6ヶ月間でこんなことになるなんて」という衝撃だった。
大腸がん、進行ステージ4
セカンドオピニオンを聞きたくて国立がん研究センター中央病院を訪れると肝胆膵外科の医師から「1つだし、これくらいのサイズならすぐに取った方がいい。(うちで手術を受けるか)どうしますか?」と聞かれたのでお願いした。即決だった。
2009年9月、肝臓に転移したがんを取り除く手術を国立がん研究センター中央病院で受けた。
「ちゃんとしっかり取れましたよ。もう大丈夫」
そう報告を受けた。
10月上旬まで2週間弱入院したが、この間、毎日のように3歳年下の朋子さんが見舞いに来てくれた。
スポーツジムのスカッシュを通じて知り合い、お付き合いが始まっていた。
朋子さんは仕事が終わると東京・築地までやって来て病室で一緒に夕食を食べて帰った。
退院してしばらくしてのこと、森島さんはそろそろ結婚したいという気持ちを伝える。
照れと恥ずかしさ、そして、自分が今後どうなるのかわからないという気持ちから中途半端なプロポーズになってしまった。
それでもしっかり屋の朋子さんは受け入れてくれて翌年2月に二人は入籍した。
ただ、今回の肝臓への転移により森島さんの大腸がんは進行ステージ4となっていた。
手術のあと11月から会社に再復帰。
とても順調で普通に残業もできる体力に戻る。
2010年に入り森島さんはスポーツジムにも再び入会。
仲間たちとスカッシュを楽しむ元の生活を取り戻し出した。
そして2010年6月、朋子さんと結婚式を挙げ、みんなから祝福された。
黄だん症状
そんな矢先の2012年1月、異変が起こる。
夜、寝る前、足の裏がかゆくて顔も黄色っぽい。
相模原市の総合病院に行くと「黄だん」という診断。
自分でも「今までとは違ったことが起きている」と感じた。
大腸がんのリンパ節転移によりリンパ節が腫れあがり胆管を押しつぶしていた。
つまり2度目のがん転移だった。
黄だん治療のため1ヶ月半入院し、3月に退院。
森島さんは転移がんの今後の治療方針を確認するため国立がん研究センター中央病院を訪れた。
肝胆膵外科医によるとそのリンパ節は太い血管の近くにあるため手術はできないという。
相模原市の総合病院と同じ意見だった。
この時、とても弱気になった。
なぜなら黄だん症状がでた大腸がん患者について調べるが、5年生存率は高くない。
たまらず医師にぼやいた。
「先生、(私のように)ステージ4だと5年生存率が15%と書いてあるんですが…」
即座に反応した医師ははっきり言い返した。
「君は君なんだから、他人とは違うんだから。世間一般の数字なんか気にすることはないじゃないか!」
そう言われ本当に嬉しかった。
「人は人。自分は自分」そう思うように決めた。
抗がん剤治療の再開
そして4月から抗がん剤(FOLFOX+パニツムマブ)治療が開始。
3週間ごとに3日間入院して点滴で治療することになる。
ただし、これが森島さんの会社人生に大きく影響した。
コマ切れの出社になるし体調が悪い日も多い。
だから、自ら依願して長期の休職扱いにしてもらった。
給料が出ない代わりに傷病手当は出るのだが、社会保険料や税金などを会社に収めなくてはならない。
収入は減った。
家にこもっていると精神的によくない。だから体調のよい時、野山、湖に出かけた。
自然の中に身を置くと気持ちが落ちついた。
誰もいない場所、人がいない場所が心の救いだった。
11年間の重み
そんな生活が1年過ぎ、2013年4月、エルプラットによるアナフィラキーショックのため抗がん剤を変更。以降は、「FOLFIRI」と「ゼローダ」の組み合わせとなる。
FOLFIRIは点滴による抗がん剤治療だが通院による治療が可能。しかもゼローダは経口の飲み薬。
だから入院しなくていい。
これを機に森島さんは会社に復職。
求めていた社会との繋がりが再び実現した。
この11年間で6回入院し、5回復職、5種類の抗がん剤治療をこなした。
その都度、目に前にある試練を乗り越えて元の生活を取り戻してきた。
温和な森島さんがやってきたことは、どんなすごい鉄人でも成し遂げられない偉業ばかりだ。
荒波にもまれた11年。
いま思うことは、なるべく多くの時間を家族との時間に充てたいということ。
朋子さんはしっかり者で森島さんの体調に合わせてお楽しみイベントを予定する。
例えば、劇団四季のミュージカル鑑賞の予定は半年先までびっしりで、二人にとって至福の時だ。
そして、釣りが大好きな森島さん。
今はフライフィッシングにはまっている。
綺麗にループを描き目指したところに力を入れずとも飛んでいく理想の投げ方に近づいてきている。
確実に上達しているのだ。
フライフィッシング用の「毛針」だって自分で作る。
これがまた楽しくて仕方がない。
いつもこういう毛針がいいんじゃないかとあれこれ考えているほどのめり込んでいる。
そろそろまたスポーツクラブに入会しようかと思っている。
がん発症から11年が経ち、不思議と先のことを考えるようになっている。
がん治療が始まった当初は、1ヵ月先、1週間先しか見ていなかった。
でも今は半年先のことを考えたりする。
病気との付き合い方がわかり、いま楽しみな予定に囲まれた生活を楽しんでいる。
森島俊二さんの詳しい「がん闘病記」、及び「インタビュー記事」はウェブサイト『ミリオンズライフ』に掲載されています。ぜひ、読んでみてください。