肺腺がん(ステージ4)生存率5%を生き抜いて

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体験談のあらすじ

38歳という若さで突然肺がんの宣告をされた森山宏則さん(取材時45歳/2010年当時38歳)。再発、転移を経験しながら、治療の合間に車で全国を旅し、会いたい人に会うという、人生の棚卸しの旅をした。懐かしい人に会うロードトリップは、森山さんに活力を与えてくれたのか、その後、森山さんは無事に社会復帰を果たした。

本編

前触れもなく突然現れた“がん”

2010年9月18日のこと。宮城県仙台市在住で理学療法士として働いていた森山宏則さん(取材時45歳、2010年当時38歳)は、仙台市内のクリニックを訪れた。
転職したばかりの職場の健康診断で、肺の再検査が必要ということで来たのだが、咳が出ているわけでも、体調が悪いわけでもない。それに38歳という若さ。「再検査」と言われてもピンときていなかった。ただ、言われるがままに再検査に来ただけだった。

ところが、診察室に入ると、男性医師は唐突にこう切り出した。
「右の肺に何かあります。すぐに専門医を紹介しますから、詳しい検査を受けてください」
「がん」という言葉を使ってはいないものの、がんを前提とした言い方で説明をされた。
そして最後にこう念を押したのだ。
「半年もほおっておけませんから、すぐに紹介先の病院に行ってくださいね」

3日後、森山さんは、紹介された仙台厚生病院の呼吸器内科を訪れた。
担当医から、「右肺上葉に10ミリ程度の結節がある」と言われた。
その説明の中で、自分ががんであることがわかった。
一か月後の10月29日に手術が決まった。
事実は妻にだけ告げた。

10月に入る頃にはネットや本で病気と治療についてかなり理解が深まっていた。
肺がんといっても、いくつかの種類があること、進行ステージ毎に5年生存率が異なっていることなど。森山さんは、自分がステージ1だと理解していた。

10月29日、胸腔鏡を用いた右肺上葉の切除とリンパ節郭清術が行われた。

数日後、リンパ節への転移はなく、肺腺がんの進行ステージ1Aだと担当医から伝えらえれる。

がんを再発させないよう、自分でできることをいろいろと調べた。
体質改善に良いと聞き、毎朝、人参とリンゴ、レモンをジューサーにかけた生ジュースを飲んだりもした。

非情な再発

ところが、手術から一年半が経った2012年4月。
仙台厚生病院の呼吸器外科での経過観察のCT画像検査の結果で、思いがけないことを言われた。
「右肺門リンパ節、左肺、そして右胸壁の3カ所にがんの再発を疑う所見があります」
腫瘍マーカーCEAは前回の検査の5倍の値を指していた。
この数値から、すでにステージ4であることを、森山さんは理解するようになっていた。
ステージ4まで進行すると外科で病巣を取り除くことはできないと、呼吸器内科を紹介された。
森山さんにとってはまるで死刑宣告のようだった。

最初のがん告知の時と違い、今回は病気についての知識がある。
ステージ4の5年生存率が5%程度ということも知っていた。
それだけに衝撃も大きかった。
森山さんは、絶望感から、どうしたらよいのか、まったくわからなくなっていた。

3日後、呼吸器内科を訪れた。
「病理検査を受けて、慎重に診断をしよう」という医師の姿勢に、森山さんは意外な感じを受けながらも、悪い方にはいかないように思えて少し安心してきた。

2週間後に出た生検の結果は「肺腺がんの転移、ステージ4」。

生検が終わり、退院した翌日、ようやくメールで職場に病状を伝えた。
病気のことは、これまで妻にしか知らせていなかった。

上司からは「ゆっくりしっかり休んで、また元気になって戻ってきてください。待っています」と温かい言葉をかけられたが、「二度と仕事には戻れないかもしれないな」という想いが頭をよぎった。
自分が元気になって職場に復帰しているイメージがわかなかった。

この頃の森山さんは最悪のことを考えて、自分の気持ちをコントロールする癖をつけていた。
明るい希望をもって裏切られる結果になるのが怖いから、最悪を出発点にしたのだ。

2012年5月10日。この日を境に長期の休暇に入った。
妻は森山さんの意志を尊重してくれた。
そんな妻への感謝の気持ちと同時に素晴らしい人を巡り合えたことを感謝する。

職場を休んで家にいることになるため、中学3年生と小学6年生の我が子にも事実を打ち明けた。
子どもたちの反応はとても薄かったが、それが逆に森山さんをホッとさせた。

肺がんの抗がん剤治療は、遺伝子によって効果が異なることがわかっていた。
自分の遺伝子に合う治療を探したところ、5%という低い確率で、森山さんにできる治療が見つかった。
「まだ希望が持てる」と思った。

治療は、抗悪性腫瘍剤「ザーコリ」で行うことになった。
https://ganjoho.jp/public/dia_tre/treatment/drug_therapy/anticancer_agents/data/crizotinib03.html
仙台厚生病院では、森山さんがザーコリ治療第一号になるのだという。

決死のロードトリップ

在宅の治療が始まると、森山さんは、かねてから温めていた計画を実行することにした。
それは、お世話になった人達に会って挨拶をすることだった。
森山さんは自分の死を覚悟していたのだった。
30人ほどにメールでがんの事実を伝えた。

そして、埼玉、大阪、兵庫、岡山、山口、島根、長崎……
2週間かけて、自分で車を運転して友人や親戚家族をたずねた。
みんな、「お前、がん患者には見えないよ!」と驚きながら、歓迎してくれた。
実に中身の濃い2週間だった。

旅の間、ザーコリが効いているのか、体調は悪くなかった。
でも、どうなるかわからないと思い、森山さんは期待しすぎないようにしていた。

2012年10月、経過観察で病院に。
抗がん剤治療の前には高い値を示していた腫瘍マーカーCEAが、再発前の値よりも下がっていた。
更にCT画像検査の結果、転移した3カ所ともがんの影が縮小しているという。
主治医からは「ほとんど影がわからなくなっていますよ」と言われ、嬉しかった。
副作用も少なく、1カ月に1度、ちょっとした吐き気があるのと、週に1度の下痢程度だった。

ただ、この病気には完治はなく、長くつきあうものなのだろう。
そのつきあい方がわかり出した、と思っていた。

10月、職場に復帰した。
4か月ぶりに教室に入ると、クラス全員が大きな拍手で森山さんを迎え入れてくれた。

さらなる転移、そして……

2013年7月、41歳の時、がんが脳に転移していることが判明した。
転移病巣は2カ所と説明された。
局所に放射線を当てるガンマナイフ治療を受けた。
3度のガンマナイフ治療を受け、2015年以降は転移が起こらなかった。
2016年は平穏だった。

2017年に入り、抗悪性腫瘍剤を「ザーコリ」から「アレセンサ」に変更した。
時間と共に、ザーコリに対して耐性が出てきたからだ。
治療薬を替えるのに迷いはあったが、結局、そう決めた。

今は高校野球の審判に夢中だ。
高校野球審判員として、宮城県高校野球付属審判団に所属している。

審判は責任も重く、球場内を走り回るし、運動量の多い仕事だから、体力向上のため、1カ月に100㎞も走り込むほどだ。まさに生きがいとなっている。に所属している。

審判は責任も重く、球場内を走り回るし、運動量の多い仕事だから、体力向上のため、1カ月に100㎞も走り込むほどだ。まさに生きがいとなっている。

病気発症当時、幼かった二人の子供たちは、今年、大学2年生と高校2年生になる。
そして2017年8月、肺がんからの7年の記念日、肺がんの診断から5年を迎えた。
5年生存率が5%とも言われた肺腺がん(肺がん)ステージ4。
決して平たんな5年間ではなかった。
一日一日を積み重ねた結果だ。

5年ぶりに自動車免許証を更新した。
5年前、「ああ、これが最後の更新になるのか」と思ったのを思い出す。
また、新しい免許証を手に入れることができたのは感慨深い。

プロ野球の開幕戦を見る度に「今年も観れた」と喜びを感じる。

そして何より、森山さんは、この5年で成長した自分自身を誇りに思っている。

森山宏則さん(取材時45歳/2010年当時38歳)

森山宏則さんの詳しい「がん闘病記」、及び「インタビュー記事」はウェブサイト『ミリオンズライフ』に掲載されています。ぜひ、読んでみてください。

plus
大久保 淳一(取材・編集担当)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイトの編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト「5years.org」を運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。

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