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体験談のあらすじ
宝飾品の加工メーカーの副社長として、仕事にまい進していた三枝幹弥さんは、2010年の秋、左首にあるしこりに気づく。がんの専門病院で診断してもらったところ、中咽頭がんだった。厳しい治療を経て、三枝さんは東京マラソンを完走するまで回復した。
5yearsプロフィール:https://5years.org/users/profile/83
本編
左首にできた小さな腫れ
三枝幹弥さん(取材時48歳、2010年当時41歳)は、山梨県で宝飾品の加工メーカーの副社長だった。父親がおこした会社で、三枝さんはその後継者として、弟と力を合わせて会社を経営していた。
子どもの頃から家業を継ぐことは意識していた。
早稲田大学に進学した頃、日本はバブル経済の真っただ中で、父の会社は社員が200人以上に拡大していた。
1995年に総合商社のニチメン株式会社(現・双日株式会社)に就職し、商品先物ディーラーになった。
学生時代に、商社マン兼先物ディーラーが主人公の漫画を読んで、憧れの職業となっていた。実際に商品先物ディーラーになってみたら、三枝さんにはピッタリの仕事だった。
5年ほど経った頃、当時東京の会社の社長をやっていた叔父に家業を継ぐように促され、29歳で実家に戻った。
その後、会社の業績は順調に伸び、2005年には弟の琢弥さんにも家業を手伝ってもらうことに。山梨の会社は三枝さん、東京の会社は弟の琢弥さんという役割分担で、経営は順調だった。
2010年9月のことだった。
風邪の影響でできたと思っていた左首にある小さな腫れが、以前に比べて大きくなった感じがした。しかし、9月は貴金属メーカーにとって年末商戦前の忙しい時期。首の腫れはちょっと気になったが、「まあいいか」とやり過ごした。
しかし、いつまでたっても左首の腫れがひかないので、近所の耳鼻咽喉科医院に行った。
主治医から、山梨大学医学部附属病院での診察をすすめてもらい、紹介状をもらった。
冬のかき入れ時を前に忙しかった時だけに、三枝さんは「困ったなぁ」と思った。
次々と行われる検査
10月に入って、山梨大学医学部附属病院の耳鼻科で検査を左首の生検を受けた。喉の扁桃腺と左首の2カ所の生検だった。
1週間後の10月14日、検査結果を聞くために一人で病院に行ったら、若い担当医から、こう言われた。
「今から検査結果を説明しますが、三枝さんが必要だと思われたら奥様を呼んでください。私からもう一度説明します」
咄嗟にビクッとした。
「まずい……、なにかあったな」
医師は淡々と説明し始めた。
「2ヵ所から取った組織のことですが、結論から申しますと両方とも悪性腫瘍の細胞が検出されました」
腫瘍には悪性度の評価(グレード)が1~5まであり、三枝さんは5だという。
この時、三枝さんの頭に浮かんだのは、
「仕事と会社、どうしよう、入院になるのかな? 1週間くらいで退院できるかな?」
といった程度のことだった。
しかし、どうも医師の返事は歯切れが悪い。
妻にも病院に来てもらい、一緒に話を聞くことになった。
この時もまだ三枝さんは、「悪い所を切れば治るし、それで終わる」と信じていた。
ところが、CT画像検査、MRI検査、胃と大腸の内視鏡検査、超音波検査と、多くの検査の予約が翌月にまでまたがって入れられた。
「もう仕事をしてる場合じゃないんだ……」
三枝さんの脳裏には、小2の長男、幼稚園年長の長女、年少組の次女のことが浮かんだ。
三枝さんは、早速、東京にいる弟と叔父に仕事の引継ぎや会社運営の相談のため、上京した。
従妹が耳鼻科医だったので、自分の病気の相談もした。
中咽頭のがんは一般的に症例が少ないから、少しでも症例数の多いがん専門の病院で治療を受けるのが望ましいとアドバイスを受け、遠いけれども東京にあるがん研有明病院で治療を受けることにした。
信頼できる医師の存在
10月18日。がん研有明病院。
三枝さんを担当した若い医師は目つきが鋭く、ニコリともしなかった。
しかしその態度は、「これまで何人ものがん患者を診てきたのだろう」と三枝さんを安心させた。
「中咽頭がんに間違いありません」と若い医師はキッパリ言う。さらに、
「きちんと検査しないと、どこががんの原発なのかわからないし、進行ステージもわかりません。頭頸部のがんはどんな治療を選ぶにしても、厳しい治療になります。しかし、三枝さんががん研の門をくぐった以上、私は手加減しません」
すごみを感じ、少し怖くなった。が、ストレートにはっきり言ってくれる医師の姿勢に、「この医師は信頼できる」と感じていた。
この頃になると、「もはや、悪い所を切ってしまえば治るという単純なものでもなさそうだ」ということを三枝さんは感じつつあった。
10月末、検査結果を聞くため、妻、弟、父と4人で担当医の話しを聞いた。
「残念ながら私の想定より進行していて、ステージ4に入っています」
頭が真っ白になった。
がんは喉の奥と左首のリンパ節の2カ所にあった。
担当医の提案する3つの治療方法はどれも悩ましかった。
1つ目は、手術で外科的に喉の奥と首のリンパ節を切除する。これが一番しっかりがんをとれるし、生存率も高い。しかし、術後は声を出せなくなる上、食べたものを飲み込むのが困難という後遺症のリスクがある。
2つ目は、放射線治療と抗がん剤治療の組み合わせで、化学療法併用放射線治療(CCRT)をする。
生存率は1つ目に比べて多少劣るが、うまくいけば声を失うことはない。
3つ目は、左首のリンパ節手術を先に行い、その後、喉の奥と首に放射線治療をするというもの。
悩んだ末、三枝さんは2つ目の治療を希望した。
入院は11月22日、CCRTの治療開始は2日後に決まった。
それまでの準備期間は、やることが山積みだった。
職場では、取引先に足を運んで状況を説明したり、社内でも社員たちへ病気を伝えた。
みんな、応援してくれた。
治療の準備では、放射線治療中に必要な、頭を固定するための専用のヘルメットを作ったりした。
過酷ながん治療
11月24日。
いよいよCCRT治療の始まる日。
1クールが3週間で、これを3クールこなす予定だ。
もう一つの放射線治療は、IMRT(強度変調放射線治療)という治療法で、月曜日から金曜日までの5日間、毎日20分間照射。これを33回行う。
IMRTは、常に患部だけに放射線が当たるようにするため、患者が身動きをとれないよう固定される。これが20分間続くわけだから、精神的にも相当きつい。
この治療を開始してから、日に日に体調が悪化していった。
一方で、治療は順調で効果も現れた。
左首にあったパチンコ玉程のしこりは、小さく平べったくなっていた。
ところが、食欲はないし、口から食べることができないため、お腹に胃ろうをして、そこから栄養を送ってもらった。
精神的にも極限の中、三枝さんは歯を食いしばって、日々を乗り越えていった。治療は年明けの1月中旬まで続いた。
1月20日、退院。
妻は3人の子どもたちで手一杯だったので、山梨の実家に帰り、しばらくは両親の元で暮らすことにした。
この頃、三枝さんはよく本を読んだ。
特に、古典的な宗教の本は心に響いた。
仏教、キリスト教、何でも読んだが、原始仏教の原典には救われる思いがした。
数千年という時代の荒波を経てもなお朽ちない文章と言葉はどこか哲学的で、弱っている心を救ってくれた。
2月7日、画像検査のためにがん研有明病院へ。
しかし、頚部リンパ腺にがん細胞が残っているかもしれないと、左首の手術をすすめられた。
しかも、顔面神経、舌下神経、副神経が頸動脈に近いから、万が一にも傷つけたら大変なことになる手術だ。
暗澹たる思いの中、インフォームドコンセントの書類にサインをした。
手術は3月17日に予定された。
新しい挑戦
ところが、思いがけないことが起こる。2011年3月11日の東日本大震災だ。
手術予定は一旦キャンセルとなり、再び不安な気持ちに苛まれることになってしまった。
「なぜこの大事なタイミングで、こんなことが起こるのだろう……」
答えの出ないまま、三枝さんは深い谷底に1人ポツンといるような感じだった。
翌週、病院から連絡が着て、3月24日に手術が受けられるという。
家族が見守る中、5時間に及ぶ手術を受けた。
手術は成功し、事前にリスクとして説明されていた合併症は起こらなかった。
3か月後の6月。
担当医から、検査の結果、がん細胞は見つからなかったことを聞き、ようやくホッとできた。
それからの三枝さんは、失った体力と筋力を取り戻すため、散歩を日課にしていたが、もっと体力の回復をしっかりしたいと考えていた。
そんなある日、ふと見た広告に東京マラソンのチャリティランナー募集を見る。
「フルマラソンか……」
思いがけない選択肢だったが、フルは無理でも、ハーフの20キロくらいならいけそうな気がする。家族に内緒でチャリティランナーに応募した。
2013年2月24日。
東京マラソンに参加。大勢の観客が沿道で応援する東京の街中をゆっくり走るのは楽しかった。完走はできなかったが、25キロを走った。
がん治療を始めてから2年の月日が経っていた。
2014年も東京マラソンに参加した。今度は6時間35分で完走した。
ゴール近くにはがん研有明病院がある。病院の前を通り過ぎながら、三枝さんは「やったぞ!」とガッツポーズをした。
三枝幹弥さんの詳しい「がん闘病記」、及び「インタビュー記事」はウェブサイト『ミリオンズライフ』に掲載されています。ぜひ、読んでみてください。