乳がん(ステージ3C)と卵巣がん 大切な日常を取り戻す

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体験談のあらすじ

左胸の一部が凹んでいることに気づき、病院で受診した日暮弓美さん。結果は進行性の乳がんで、通常の140%の抗がん剤を投与する臨床試験を受け、乳房部分切除手術も行った。ところが8年後、原発の卵巣がんが発見され、一から治療を行うことに。心が折れかけたが、日暮さんはがんに立ち向かうことを決め、辛い治療を乗り越えた末、充実した毎日を取り戻すことができた。

本編

最初のがん告知

2007年10月、埼玉県飯能市在住の日暮弓美さん(取材時51歳、当時42歳)は、左胸の真ん中より少し上あたりが凹んでいることに気づいた。
しかし、娘の学校の役員で忙しく、病院に行ったのは11月半ばになってのことだった。
病院では、超音波検査、細胞診、組織診を受けるが、結果が気になり、しばらくの間、家事にも身が入らないという、“心ここにあらず”の状態が続く。

11月下旬。
病院で検査結果を聞くと、医師が明るい表情で、細胞診も組織診の結果が良性であることを伝えてくれた。
ただ、超音波検査でみた胸の形が気になるので、大学病院の受診を勧められた。
一抹の不安を感じながらも、最悪の可能性を考えていたため胸をなでおろした。

12月17日。
夫と一緒に埼玉医科大学国際医療センターの乳腺外科を訪れた。
左胸と鎖骨のあたりを触診したあと、医師は「間違いなく乳がんです」とあっさりと告げた。
初期ではないため、抗がん剤治療を行った後に手術を行うという。

告知を受けた日暮さんは、意外な感情が沸き上がってくるのに驚く。
もっと取り乱すかと思ったが、意外と冷静に受け止める自分がいたのだ。
病名が分かり、モヤモヤした気持ちがスーッと晴れていく。

平然としている日暮さんの様子に、医師は不安を感じたようで夫を呼んだ。
がんのことを知ると、夫はひどくショックを受けていた。
日暮さんは自分事のように思えず、不思議な感覚で夫と医師のやり取りを聞いていた。
ただ、気になるのは中学3年生の長女のこと。
受験に影響が出るのではと不安になった。

臨床試験と副作用

2008年1月7日
がんが進行しているため、前半は通常の抗がん剤治療を行い、後半はタキソテールを規定量の140%投与する臨床試験を勧められた。

夫は反対したが、日暮さんは「受けられる治療はすべて受けたい。何かあった時に後悔したくない」と強く主張した。

1月17日から抗がん剤治療(CEF療法)が始まった。
第1日目に点滴で前半の抗がん剤(シクロホスファミドエピルビシンフルオロウラシル)を入れ、20日間を回復期に充てる3週間を1クールとし、4クール行う治療だ。

日暮さんにとって最も辛かったのは髪の毛が抜けることだった。
治療を受けると決めた時に覚悟したはずだったが、今までの自分がいなくなるようで鏡を見ることができなかった。
頭痛がするくらい泣いた。

辛い治療に耐えたにもかかわらず、乳房、鎖骨、わきの下にある腫瘍の影は、数も減らず、小さくもなっていなかった。
ため息が出た。

いよいよ後半の臨床試験。
「タキソテール(ドセタキセル)」の治療が始まった。140%という大量の抗がん剤の投与だ。https://ganjoho.jp/public/dia_tre/treatment/drug_therapy/anticancer_agents/data/docetaxel01.html

CEF療法と同様3週間を1クールとし、タキソテールが身体に入ると1週間後から血液中の白血球の数値が低下するため、白血球を増やす「ノイアップ」を注射され、臨床試験のスケジュール通り休みなく3クールをこなした。

4クール目に入ろうとした時、身体の左半分がむくみだした。

このまま治療を続けるのは危険だと中止を提案されたが、日暮さんには、治療を途中で終わらせることで、がんが進行することの方が怖かった。
「どうしても続けたい」と一生懸命に訴えて、続行を認めてもらった。

4クール目の抗がん剤治療を無事終えた後、乳房にあった小さな腫瘍3つと鎖骨下の腫瘍が消え、左乳房を温存できるほど腫瘍が小さくなった。
胸を残したいと思っていた日暮さんにとって、これほど嬉しいニュースはない。

7月25日に乳房を温存して腫瘍を取り除く外科手術が行われた。
オペは無事に終わり、ようやく安心することができた。

根治を目指し予防も兼ねた術後治療で、放射線とホルモン療法、経口薬の抗がん剤(TS-1)を行うことに。(https://ganjoho.jp/public/cancer/breast/treatment.html

放射線治療は、月~金の5日間、毎日病院に通い、患部3ヵ所(胸、わきの下、鎖骨の下)に1回、5分ほど放射線を当てる。全5週間の治療だ。

10月
偶然、自分のカルテを目にした。そこに書かれていたのは「ステージ3C」。
「早期ではなかったのか……」
複雑な思いだった。
でも治療を続けるしかない。

副作用に悩みながらの抗がん剤治療は1年間続いた。
治療をやり遂げ、解放されたような気持ちになった。

あとはホルモン療法だけ。
徐々に平穏で大切な毎日を取り戻していった。
「なにがなんでも50歳まで生きてみせる」
日暮さんは自分に言い聞かせた。

戻ってきた日常と二度目のがん告知

2011年11月、発症から4年が経ち、日暮さんは46歳になっていた。
抗がん剤はやめたが、髪は元の状態に戻らず、手足のしびれも完全には取れていない。
それでも、再発はなく元気に過ごしていた。

ところが、3ヵ月ごとの検診で気になることがあった。
乳がんの血中腫瘍マーカーの「NCCST439(基準値:7 U/ml以下)https://www.ncc.go.jp/jp/about/research_promotion/study/list/2018-119.pdf」の値が少しずつ上がっていたのだ。

自覚症状はないので、日暮さんはあまり気にしていなかったが、医師は厳しい表情を見せる。
「私の体で何が起こっているのだろう……?」

その一方で、日暮さんはランニングを始め、走ることが生活の一部になっていた。
2013年1月には10㎞を走ることができた。
2015年には、国内最大級の人気イベントである「東京マラソン」に当選した。
楽しみでたまらなかった。

ところが、2014年の暮れには、腫瘍マーカーは「224」まで上がる。

気味が悪かったが、東京マラソン大会の出場をやめるわけにはいかない。
検査を遅らせることにして、42・195キロにチャレンジした。
6時間10分で完走。
乳がんから7年、ここまで元気になれたことが嬉しかった。

大会後の検査で悪い結果は出てこなかった。
それでも、腫瘍マーカーの値が上がる原因が分からないため定期検診は続けていたところ、6月のPET検査で卵巣に異常が見つかった。
すぐには悪性と判断されなかったが、かなり“クロ”に近いという。

2015年7月、がん研有明病院で超音波検査をすると、良性ではない可能性が高いと伝えられる。
今まで大丈夫だろうと信じていたものが、足元から崩れるようだった。

乳がんの腫瘍マーカーは高いのに、卵巣がんのマーカー(CA125、CA19-9)は標準域内のため、乳がんの卵巣移転だと判断された。

病理検査手術を行うことになったが、一刻を争うものではないということで、次女の大学受験が終わる11月に行うことに。

経過を診たところ、卵巣がんは大きくなっていなかったため、乳がんの転移の可能性が高いと伝えられる。
ホルモン治療薬によって子宮体がんになるリスクが高まるため、この機会に子宮も切除するかどうか確認された。
もうやるしかない。日暮さんは少しでもリスク抑えたいと子宮を取る決断を下す。

11月18日、手術。
切除した卵巣は手術中に術中迅速病理診断にまわされ、「乳がん転移ではなく、原発の卵巣がん」だと判明し、腹膜の一部である大網も切除するオペを行った。
結果、子宮、卵巣、卵管、大網が切除され、腹水にがん細胞が出ていることも確認された。

12月上旬、最終的な病理検査結果を聞くため病院へ。
原発の卵巣がんのため、リンパ節をすべて取り除く、2度目の手術と抗がん剤治療が必要なることを伝えられた。
まるで人生がひっくり返ったようなショックだった。

乳がんのマーカーが陽性で、卵巣がんのマーカーが陰性なのにも関わらず、原発の卵巣がんになることが納得いかない。
「一週間考えさせてください」と伝えるのがやっとだった。
何人かの医師にメールで問い合わせたところ、理路整然と、因果関係と追加の手術と抗がん剤治療に賛成する旨が書かれていた。

それを読んで手術の決断がついた。ホッとしたのか涙がこぼれた。
いつまで悩んでいても仕方がない。
日暮さんは治療を受ける決意を固めた。

2016年2月22日。
卵巣がんの手術を行った。
6時間以上かかって、70個以上のリンパ節を郭清するという大手術だった。

4月下旬から抗がん剤治療(タキソールカルボプラチン)が始まる。
https://www.ncc.go.jp/jp/ncch/division/pharmacy/pamph/CBDCA_PTX.pdf
3週間を1クールとし、卵巣がんの再発予防が主目的で8月終わりまで合計6クール行われた。

がんを乗り越えた“私”が生きる未来

日暮さんは多くの試練を乗り越えてきた。
1つ目の乳がんもきつかった。
次は卵巣がんの治療まで受けることになり、一時は心が折れかけた。
しかし今は「明日死んでも後悔しない生き方にしよう!」と強く思えるようになった。
後悔しないために、やりたいことを我慢せずやろう。そう心に決めた。

6月には、がん研有明病院で開催される「乳がん患者さんのためのフェスティバル・ファッションショー」に挑戦することにした。脱毛コンプレックスを克服するため、ファッションショーではかぶっていた帽子を取ってスキンヘッドになる演出をした。
脱毛で泣いてばかりだった昔の自分にピリオドを打ちたかったのだ。
会場がどよめき、同時に大きな拍手がわき、勇気をたたえられた。

がんになる前の私とは違う私になりたい。そんな思いがどんどん高まり、多くのことに挑戦した。
昔だったらそんなこと絶対にできなかった。

乳がんを発症した時の自分は人の目が怖くて仕方がなかった。
見た目が変わってしまうこと。誰かに噂されること。
でも、もう大丈夫。
今の私はがんをきっかけに充実した毎日を送っている。
東京マラソンのボランティアや、音訳の講座に受講したりと、楽しみがいっぱいの毎日だ。

日暮弓美さんの詳しい「がん闘病記」、及び「インタビュー記事」はウェブサイト『ミリオンズライフ』に掲載されています。ぜひ、読んでみてください。

plus
大久保 淳一(取材・編集担当)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイトの編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト「5years.org」を運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。

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