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体験談のあらすじ
子どもの頃、逝去した父親が37歳だったことから、「37歳」の年齢が気になって、毎年健康診断を受けていた大東篤史さん。しかし、皮肉にも父親の享年に近い年齢で腎臓がんが発覚する。その後、家族や周りの温かいサポートを受けながら、幾度もの危機を乗り越え、見事社会復帰。子宝にも恵まれる。さらに、フルマラソンを2時間台で走るほど、元気になった。
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本編
「37歳」の宿命
岐阜県土岐市在住の大東篤史さん(取材時44歳/2010年時37歳)は、5歳の時に父親(享年37歳)を胃がんで亡くしていた。
神奈川大学を卒業後、大手のファミリーレストランに就職、フランチャイズ展開しているコーヒー会社に転職と、外食業界で働いていた。
14歳年下の女性と結婚したばかりだった。
昔から父が亡くなった年齢を気にしていた。
「37歳」が近づくにつれ、「もしかしたら自分もがんになるんじゃないのか?」といった不安がよぎっていたからだ。
2010年秋、何となく右側の脇腹に違和感を持ち、近所の内科クリニックを受診した。
血液検査と超音波検査を受けるが、検査結果には問題はなかった。
2011年1月、大東さんは地元の事業協同組合に転職した。
家族を持つ身になったことで、きちんと休め、長く続けられる仕事に替えたのだ。
月曜日から金曜日に働き、週末には休める生活になった。
3月10日、相変わらず続く右わき腹の違和感が気になり、市立総合病院でCT画像検査を受けた。
その翌日、東日本大震災が発生し、大東さんは、命について深く考えるようになる。
3月17日、CT画像検査の結果を聞きに行くと、医師から「左の腎臓に腫瘍があるので、すぐに精密検査を受けてください」と言われた。
「やはり何かあったんだ」とうなずく一方、「あれ? 違和感があったのは右側なんだけど、腫瘍があるのは左なの?」と意外に思った。
泌尿器科でMRI検査を受けたところ、医師からこう言われる。
「画像を見る限り、8~9割の確率でがんでしょう。腎臓のがんは抗がん剤や放射線が効きにくいので、手術して腫瘍を切除するしかありません。ここでやるか、他の病院を希望しますか?」
大東さんは、愛知県がんセンター中央病院への紹介状を書いてもらった。
夜、近所に住む母と弟を自宅に呼び、事実を伝えた。
夫を胃がんで亡くした母は息子のがん宣告に、ショックで泣き続ける。
弟は静かに話しを聞いていた。隣にいる妻は泣きたいのを堪えていた。
大東さんも辛かった。
1月に転職したばかりだったが、上司に腎臓がんのことを伝えたところ、試用期間中の部下を守ろうと職場の中で動きだしてくれた。
それからの大東さんは、MRI検査、骨シンチグラフィー検査、血液検査、CT画像検査と、検査の連続だった。
全ての検査を終え、オペは4月19日にできることになった。本当は2ヶ月以上先までオペ室は予約で一杯だったのだが、急にオペ室に空きができたため、緊急でオペを入れることができたのだ。
主治医によると、大東さんのがんは、ステージ3の腎臓がんで、「T3a N0 M0」というタイプだという。
画像をみると、周囲にがんが転移している可能性が高いと言われた。
度重なる緊急手術
2時間の手術は無事に終わり、大東さんは集中治療室(ICU)に運ばれたが、身体がだるくて「ボーッ」としていた。
しかし、実はこの状態は、お腹の中で出血し、血が止まらなかったために起こった貧血のサインだったのだ。
夜中に採血に来た看護師により、異常事態であることがわかり、緊急に開腹手術が行われる。
腎臓がんの摘出手術を受けたばかりで、2日連続で外科手術を受けることになったが、手術室の中では、切迫している雰囲気だった。
「このまま死ぬのかな……」
と思うも、麻酔がききだし、大東さんは、深い眠りに落ちていった。
ICU(集中治療室)で目が覚めた時、心配そうな妻と母、弟が枕元にいた。
意識が戻ると、今度は痛みに苦しめられた。
妻はパートの仕事を休み、連日、病室に泊まり込んでくれた。
朝になると夫の寝巻きを自宅へ持ち帰り、洗濯・家事を済ませて、1時間車を運転して病院に戻って夫の身の回りの世話をしてくれた。
しかし、4日後、お腹の傷口が開いて小腸が挟まっていることが判明。
3度目の外科手術が行われた。
次にICUに戻ってきたときの大東さんは、身体中が何本もの管に繋がれて、絶対安静となった。
鼻から十二指腸に入れているイレウス管というチューブが喉の奥に触れると、吐き気を起こし、気持ち悪くて寝ることもできない。
わずか1週間で3度の開腹手術をしたのだ。
精神的なダメージも加わり、夜も眠ることができず、どんどん弱っていく感じだった。
少しずつ、一歩一歩
しかし、少しずつ希望の光が差し出す。
3度目の手術から5日目に口に氷を含むことが許された。
とても美味しかった。
6日後には水を飲むことができ、7日後には薄い重湯をとることができるようになった。
小さな階段だが、少しずつできることが増えていくようになった。
リハビリも徐々に行われた。
最初はベッドから起き上がるのにも一苦労だったが、点滴棒を押しながら病棟を歩きまわり、手術から2週間目には、病院の屋外への散歩もできるようになった。
この日の空が美しく、大東さんは自分が生きている感じがして心から嬉しかった。
ついに5月16日、退院し、自宅に戻った。
手術から1ヶ月が経っていた。
退院後は、毎日ウォーキングを日課にしていた。
68キロあった体重は今や51キロまで減っていたから、毎朝5時に起き、30分くらい散歩して、体力と筋力を取り戻そうとした。
6月中旬、職場に復帰。
転職してまもなく入院になったので、がんで解雇されるのではないかと心配したが、上司が大東さんの雇用を守って待っていてくれた。
新しい命の誕生
秋になると、妻が妊娠したことがわかった。
夫婦2人、心から喜んだ。
「がんを経験したけど、生まれてくる赤ちゃんのためにも、自分は健康で元気で頑張らなくちゃいけない」
心身に力がみなぎるのがわかった。
2012年夏、娘が誕生。
母も喜んでくれた。
2013年に入って、大東さんはそれまで毎日ウォーキングをしていたが、走り始めるようになった。高校時代は陸上部の長距離選手として活躍していたこともあるのだ。
3月に日本大正村クロスカントリーの6マイルに参加。
20数年ぶりに大会というものに出た。わずか6マイル(約10キロ)だったが、楽しかった。
4月には恵那峡のハーフマラソンに参加した。
練習で20キロも走ったことはなかったが、結果は「1時間36分」という、驚異的な好成績を残した。
そして、11月には湘南国際マラソンに参加した。
「3分26分」という、またまた好タイムで完走できた。
腎臓がんが発覚してから1年半がたっていた。
腎臓がんになった時、まだ結婚して1年も経っていなかったのに、父と同じように死んでしまったら残された妻は大変なことになると思った。
歯を食いしばり、つらい治療に耐えて乗り越えて、社会に戻ったら、可愛い娘が生まれて、また走れるようにもなった。
いろんな思いがこみあげてきて泣けた。
走り終えた後、妻に電話し、嬉しい報告と共に、これまでの感謝の気持ちを伝えた。
それからの大東さんは、マラソンで驚くような成長を遂げる。
フルマラソンの世界には「サブスリー(2時間台で完走)」といって、勲章のようなタイムがある。
市民ランナーで、サブスリーで走れる人は、ランナー人口の上位3%だけだ。
2015年3月の静岡マラソンでは、3時間0分6秒というタイムで走り、11月のいびがわマラソンで、2時間59分でサブスリーを達成した。さらに、2017年の静岡マラソンでは、2時間54分15秒と自己ベストを更新し続けた。
腎臓がんから7年。
大東さんは7年前よりも得たものの多い、充実した人生を送っている。
大東篤史さんの詳しい「がん闘病記」、及び「インタビュー記事」はウェブサイト『ミリオンズライフ』に掲載されています。ぜひ、読んでみてください。