この記事を読むのに必要な時間は約 8 分です。
体験談のあらすじ
日々の何気ないところにがんのサインは現れる。高木さんの場合は、血便に気づいたことがきっかけだった。常に「最悪のケース」を想像しておく癖が幸いして、がん宣告後も淡々と日常生活を保てていたが、そんな高木さんも、手術と抗がん剤治療を通じて、想像以上の経験をした。
5yearsプロフィール:https://5years.org/users/profile/3234
本編
ふと気づいた血便
東京都練馬区在住の高木直子さん(取材時44歳、2015年当時42歳)は、ケーキをつくる会社でパートとして働いていた。
パンやケーキが大好きで、趣味が「パン屋めぐり」というほどだ。
2015年9月のある日、トイレで用を足しているときに、便に血がついていたことに気づいた。
「痔なのかな?」
軽い気持ちでインターネットで調べたら、痔の場合は明るい赤色の血、内臓系に異常がある場合は黒ずんだ赤色の血がつくということを知った。
自分の場合は明るい赤だったなと思って安心した。
しかし、それからも血便は続いていた。
11月になって会社の健康診断を受けたところ、「潜血便、要精密検査」という結果だった。
12月8日、恵比寿の病院を訪れた。触診を受けた後、大腸内視鏡検査が必要と言われた。しかし、予約がとれるのは最短でも2カ月以上先の2月23日。
この時、高木さんは、「肛門からカメラを入れられるなんて、嫌だなぁ」と思うくらいで、深刻にはとらえていなかった。
2016年2月23日、検査当日。
肛門からカメラが入り、モニター画面を見ていたら、直腸でさっそく腫瘍が2カ所に見つかった。
その部分から血が滲み出ている。
40分程の検査の後、担当医から、「紹介状を書きますので、大きな病院に行って詳しく調べてもらってください。悪性の可能性があります」と言われた。
高木さんは昔から、何かあった時は最悪のシナリオを考えて、心に保険をかける習慣があった。
万が一その通りになったとしても「想定内だから」と納得し、落ち込まないようにするのだ。
この時も、最悪の状況は想定していた。
3日後、紹介先の日本赤十字社医療センターの大腸肛門外科を訪ねた。
優しそうな50代の男性医師は、画像をみてこう言った。
「専門家から言わせてもらうと、99%進行性の直腸がんです。すでに初期ではありません」
がん告知を受け入れる
しかし、事前に心のトレーニングをしていたこともあり、高木さんはショックを受けて取り乱すようなこともなく、すんなりと受け入れた。
自分ががんで死ぬとも思えなかったし、テレビや雑誌などのメディアで、がんになった人の闘病生活に焦点を当てて美談にしたりするのも性に合わなかった。
だから、事実を淡々と受け入れて、黙々と治療をこなしていく、それでいいと感じている。
それよりも、現実的な仕事のことと、友達と約束していたライブやパン屋めぐりの予定をキャンセルしなくてはならないことで、頭の中は占められていた。
この日、日本赤十字社医療センターでレントゲン、血液検査を受け、CT画像検査の予定が組まれた。
電話でがんだったことを夫に伝えた後、出社して、会社の上司と社内の同僚にも伝えた。
みんな、高木さんが慌てず、動揺せずに淡々とがんの事実を伝えることに驚いていた。
手術は3月17日に決まった。
「腹腔鏡下超低位前方切除術(一時人工肛門造設)」という腹腔鏡を使った手術だ。
主治医からは「直腸がん、ステージ3A」だと告げられた。
「人工肛門」という単語がひっかかった。
人工肛門は腹部に穴を開け、そこから小腸の切り口を外に出して、人工的に作られた排泄口を設置するという。
両親にはまだ伝えていなかった。
姉に相談したら、「子供のいる親の立場から言わせてもらうと、内緒にしてほしくない」と言われ、実家の兵庫県の母に電話で説明した。
母は意外にも、慌てたり取り乱すことなく、「あー、そうなん」と落ち着いて聞いてくれた。
手術と人工肛門
3月17日。午前9時から約3時間にわたって手術が行われた。
手術後、麻酔が覚めたら、ものすごい悪寒で震えが止まらなかった。
身体からは何本も管が出ていて煩わしかった。両腕に点滴があり、背中には麻酔の管が入れられている。
道尿管もついているし、腹部から管が出ていてパックに繋がっている。
さらに、人工肛門(ストーマ)。
手術後3日目に看護師がストーマ袋の取り換えをしてくれた。看護師から人工肛門の口を見せられ「かわいいでしょ。梅干しみたいでしょ」と言われたが、高木さんにはそんな風には思えなかった。
入院中、夫は毎日仕事帰りに顔を出してくれた。
「俺、皆勤賞を目指すよ!」という夫に感謝し、惚れ直した。
3月の終わり、実家から両親が見舞いにきてくれた。
心配させたことを反省したが、「元気そうで安心した」という言葉が嬉しかった。
4月4日に退院。
自宅に戻ってからはとにかくストーマに苦労した。
ストーマには排泄物を受け止めるストーマ袋(パウチ)と、土台が一緒になったストーマ装具を取り付けるのだが、それがうまくできないのだ。
しかも、装具を腹部に着けていることがストレスに感じる。
寝ていても気になって憂鬱だし、時々、中の排泄物が漏れることもあり、涙が出た。
夫は優しく、毎日、お昼休みと終業後に電話をしてくれて、高木さんの様子をうかがってくれた。
しかし、淡々とした態度でいた高木さんも、さすがにストーマのストレスに参っていた。
抗がん剤治療の開始
退院後は、友人とランチを一緒にしたり、自分のやりたいことをして楽しんでいたが、それもこれから来る抗がん剤治療のために英気を養うという目的があった。
抗がん剤治療(オキサリプラチン・ゼローダ)は8クール行う予定だ。
退院から3週間後の4月25日、入院での抗がん剤治療が始まった。
初日のみ、点滴でオキサリプラチンを投与、そして錠剤のゼローダを朝夕5錠ずつ。
2週間継続服用し、1週間の回復期を設ける、合計3週間を1クールとする。
2泊3日で退院したが、高木さんは手のしびれ、のどの違和感、吐き気、食欲不振などの副作用に悩まされた。
2クール目からは外来の点滴ルームで治療が行われた。
オキサリプラチンを投与したら帰宅する予定だったのだが、帰る直前に息苦しくなった。
足も動かない。
急きょ、車椅子を用意してもらった。
夫に電話すると、なんと、勤務先の社長の車を借りて迎えに来てくれた。
副作用の出方は患者によって異なるが、オキサリプラチンは高木さんには合っていないようだった。
副作用を重くみた担当医が、「今後はゼローダだけにしましょう」と提案してくれる。
だが、ゼローダも副作用で足の裏が赤く膨れ上がり、触ると痛かった。
もちろん歩くのも痛い。常に保湿クリームを塗って、夏でも靴下が必要だった。
近所のスーパーに歩いて買い出しに行くと、次の2日間は足を休めるため、家で安静にしなければならない。
だるさと足裏の痛みに悩まされた。
この時の高木さんにとっての励みは、8クールの抗がん剤治療後にストーマ(人工肛門)を外せるということだった。
だから目標のためにがんばった。
ストーマの影響で体重が減っていたが、「あの人は病気で痩せているんだ」と思われるのが嫌で、一生懸命に食べたりもした。
とはいえ、がん治療は、人生で初めて経験する類の辛さだった。
回復に向けて
10月6日
この日は抗がん剤治療の最終日だった。
最期の錠剤をのんだとき、何とも言えないやり遂げた解放感を味わった。
そして、11月4日。
人工肛門の閉鎖手術が行われた。
術後に目覚めたら、腹部がものすごく痛かった。
手術の3日後、流動食が開始された。
しかし、肛門を数カ月間使って入ないから、お尻を絞める感覚を忘れている。
しかも高木さんには直腸がない。
便意を感じると1秒も我慢できないような状態で、毎日20回以上トイレに行く。
だから、トイレから戻ったばかりなのに、またすぐ戻るということを一日に何度も繰り返していた。
通院にも一苦労だった。
自宅のある練馬区から病院のある広尾まで電車通院だったが、すべての駅のどこにトイレがあるかを把握していたほどだ。
しかし、徐々に体は適応するようになり、1ヶ月もすると1日20回だったトイレが10回くらいに減り、少しずつ普通の生活に近づいていった。
2017年4月には職場復帰を果たし、久しぶりにケーキを作った。
意外と感覚が鈍っていなかったことに、同僚だけでなく本人も驚いた。
再び、以前のように友人たちとライブに行ったり、パン屋めぐりができるようになった。
高木さんは、こうした日々を愛しく思っている。
高木直子さんの詳しい「がん闘病記」、及び「インタビュー記事」はウェブサイト『ミリオンズライフ』に掲載されています。ぜひ、読んでみてください。