中咽頭がん(ステージ4)喋るか食べるかの選択

この記事を読むのに必要な時間は約 8 分です。

体験談のあらすじ

フルマラソンのトレーニングを積んで、目標タイムに届きそうになっているときに、中咽頭がんがわかった本園泰さん。治療効果が芳しくなく、喋るか食べるかの二者択一を迫られたこともあったが、リハビリを積極的に頑張り、結局はどちらも失うことなく快復した。その上、フルマラソン復帰まで果たした。

本編

敏感に感じた口の奥の痛み

福岡市内でタクシー会社を経営している本園泰さん(取材時60歳、2015年当時57歳)は、2015年11月のある朝、うつ伏せで寝ていて、左の歯の奥に痛みを感じた。
虫歯のような痛みではなく、歯茎が痛い感じだった。

それから10日程後、スポーツジムでサウナに入っていた時のこと、唾液に血が混ざっていることに気づいた
昔から、身体のことで気になることがあると、早めに病院で診てもらっていた本園さんは、12月に入って、福岡市内の耳鼻咽喉科クリニックを訪れた。
「特に異常はなし」と言われ、口内炎の薬を2週間分もらった。

この時、本園さんが自分の身体に敏感だったのは、2ヶ月後に行われる北九州マラソンに参加するためだった。
2度目の参加で、今度こそ5時間以内にゴールしたいと、練習を積んでいたのだ。

年が明け、2016年になっても続く、口の奥のチクッとした痛みが気になり、他の耳鼻咽喉科でも見てもらうことにした。
そこでは、鼻から内視鏡をいれる検査をされた。
内視鏡から映し出される画像を一緒に観れる検査で、医師から「舌根(舌の付け根)に腫瘍があります」といわれた。
2週間分の薬が処方され、2週間後に再度その病院へ行くことになった。

その間に北九州マラソンはあった。
目標としていた5時間切りを実現でき、次の4月のレースも楽しみになってきた。

翌週、病院を訪れると、九州中央病院へ行くように言われる。
この時、この意味を本園さんはよくわかっておらず、「わかった、行けばいいのか」くらいに思っていた。

「ごはんがいいですか? 喋るほうがいいですか?」

2日後、九州中央病院の耳鼻科で、血液検査、レントゲン検査、内視鏡検査が行われた。
翌日、伝えられたのは、「がんと言えばがんですし、がんじゃないと言えばがんじゃない」といった、なんとも曖昧模糊としたものだった。

翌週、妻と湯布院の温泉旅館に一泊したが、体調を崩し、インフルエンザという診断が下された。
心身ともに変化してる時だった。

三度目の九州中央病院・耳鼻科で、診断がつかないからと、福岡赤十字病院への転院をすすめられた。
福岡赤十字病院では、中咽頭がんの疑いがあると言われる。
この時から、少しずつ「現実」が見えてくるようになった。

それから、CT画像検査、MRI、PET―CTなど、様々な検査が続いた。
中でも極めつけだったのが、口から舌の奥の腫瘍をつかみ取る生検だった。看護師たちに体と頭を抑えられ、金属のマジックハンドのようなもので、舌の付け根の部分をつまみ出す。
ゲホゲホ、オエオエ、涙を流しながら、舌根の組織をちぎり撮られた。
こんな検査は二度と受けたくないと思った。

結果は中咽頭がんのステージ4だという。
「4の上は何ですか?」と質問したら、医師は「4までしかない」と答える。
ここでようやく本園さんは「とんでもないことになっているんだ」と実感した。
がん病巣が大きすぎるから、放射線治療から始めるという。
でも、それならがん専門の九州がんセンターで治療を受けたいと転院を申し出、認められた。

九州がんセンターの頭頸科の医師は、これまでの検査結果を一通り読んでこう言った。
「ごはんがいいですか?それとも喋る方がいいですか?」
本園さんにはすぐにこの意味がわかった。
つまり、喋れるようになるか、ごはんを食べられるようになるか、二者択一だという意味だ。
「あー、そこまでひどいなら、治療なんかしなくてもいいし、これで終わりでもいいか」

そんな思いを医師に伝えると、逆に医師が驚いたようだった。
中咽頭がんではすぐに死なないし、たとえ声を失っても、伝えたいことは伝えられる、諦めないで治療しましょう、といわれた。

でも、喋れなくなったら、復帰しても仕事にならない。
主治医は、「扁平上皮がんでウイルス性(HPV型)なので、放射線療法が効くはずだ」と言う。それでもだめだったら手術を検討するのだそうだ。

まだまだやりたいことがある

入院すると、治療用の樹脂製マスクを作った。
放射線治療中に本園さんの頭を固定するためのもので、野球のキャッチャーマスクのようなものだ。
月~金までの5日間を8週間、合計40回の照射の予定だ。

そうして、放射線治療が始まった。
22回目の放射線照射が終わった5月23日。
主治医から、意外と放射線の効きが悪いことを伝えられた。
手術の可能性が濃くなってきた。

しかし、「手術=声を失う」と本園さんは思っていたので、受け入れたくなかった。
こらえきれず、妻の前で、がんを告げられて初めて泣いた。

翌日、主治医から、改めて手術をすると聞かされた。
しかし、食べ物の飲み込みは苦労するかもしれないが、口から食事がとれるし、声だって残る、と努めて明るい感じで説明された。

悩んだ本園さんは、リハビリ科の医師に、自分だったら家族に手術を勧めるかどうか聞いた。その医師は「僕なら家族に手術を勧めます」とハッキリ言われ、気持ちが固まった。

オペ後は滑舌を失うかもしれないし、飲み込みにくくなるかもしれない。でも、自分はまだ死にたくないし、やりたいこともまだまだある……。

6月20日、九州がんセンターで手術が行われた。
舌根に大きな病巣があるため、そこを切除するには首を左右に切開し、下からしっかりと切り取らなければならない。さらに、術後の機能障害を抑えるため、本園さんの太ももか腹部から組織を切り取り、舌根に移植する同時再建も行われる。
加えて、頭頸部のリンパ節郭清も予定された。
手術は11時間にも及んだ。

失くして知った、舌の使い方

本園さんHCU(高度治療室)で目覚めた。
確認のために左脚を動かしてみたら、ズキッと痛む。
舌の再建のための組織をとったのだ。

気道を確保するために、喉にチューブが取り付けられていて、そこに痰が詰まる。だから、30分毎にナースコールをして、バキュームで吸い取ってもらわなければならない。
体中が痛いし、いろんな管がつけられていて、不快極まりない。

しかし、術後2日目で導尿チューブがとれ、3日目で喉のチューブがとれた。
驚いたことに、喋れた。
すぐに興奮して、妻に電話し「しゃべれるよ!」と喜びを伝えた。

ただ、食事の方は、なかなか思う通りにはいかなかった。
私たちは食べるとき、舌を使って、口の中の食べ物をかき回して、餅つきのように歯で噛みくだいて、細かくしてから飲み込む。

しかし、本園さんの舌はうまく動かないため、歯の下に食べ物を寄せられず、食べ物がないところに歯がカタカタと上下しているようなのだ。
「舌を使って食べる」という作業の仕組みを理解した本園さんは、改めて、人体のスゴさに関心した。

舌と鍛えるには、たくさん喋ることだと言われ、滑舌が悪くても恥ずかしがらずに看護師や理学療法士に話しかけた。
それからは、どんどん食べられる食事が増えていき、話すことも上達していった。

切除した組織から転移は見つからなかった。
つまりがんの病巣は手術ですべて切除できたわけだ。
これにより、本園さんのがん治療は終了し、残すはリハビリだけとなった。

マラソンに復帰

入院から一ヶ月半がたった8月1日に退院した。
その直後に職場復帰も果たし、8月中旬にはスポーツジムにも復帰した。

そして、10月には38キロ、11月には78キロ、12月には97キロと着実に月間走行距離を伸ばした。

翌年の2月に行われた10キロマラソンは、61分40秒で完走できた。

そして、夏には、大切な妻と一緒にハワイへ旅行にも行った。
これまでも、そして闘病の間も自分に尽くしてくれた妻に感謝の気持ちで一杯だった。

11月には神戸マラソンで42.195キロを完走した。

2018年3月には還暦を迎え、6月はがんから2年目の節目となった。
6月には中学校の同窓会もあった。還暦を迎えた同級生達と喜びを分かち合う。
本園さんは、今、心から幸せだと感じている。

本園泰さんの詳しい「がん闘病記」、及び「インタビュー記事」はウェブサイト『ミリオンズライフ』に掲載されています。ぜひ、読んでみてください。

plus
大久保 淳一(取材・編集担当)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイトの編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト「5years.org」を運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。

関連する投稿

検索語を上に入力し、 Enter キーを押して検索します。キャンセルするには ESC を押してください。

トップに戻る